JUMBO MAATCH インタビュー 〜継続はいつの日か力に〜

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「JUMBO MAATCH」。

PUSHIMRYO the SKYWALKER、NG HEADらも在籍した90年代の伝説のクルー『TOKIWA』の一員だったアーティストであり、自身所属MIGHTY JAM ROCKの主催フェス『HIGHEST MOUNTAIN』には3万人を動員。日本のレゲエタウンと呼ばれる大阪で20年以上活躍を続ける、名実ともに日本語レゲエのパイオニアの一人である。

現在は人気TV番組『フリースタイルダンジョン』にレギュラー出演中であり、畑違いの環境の中で苦戦しながらも唯一のレゲエアクトとして気を吐いている。

 

現在43歳。今もって戦い続ける彼の“アジト”であるMJRスタジオまでお邪魔し、インタビューに付き合ってもらった。

 

 

 

●ええと、最初は定番の質問から行こうと思うんですけど、レゲエに出会ったきっかけから。

 

きっかけはー、俺ずっとアメフトをやっとって高校の時。けっこうマジな方で、全国狙うみたいな。言うたらまぁ、引退するまでの二年半ぐらいはずーっとそれにどっぷりやった訳で。

で、俺がそれをやってる間に同級生のTAKAFINとか、今プロモーターをやってるALTO DE MILOって奴がおんねんけど、その辺の何人かがLABLISH(※90年代大阪の伝説的なレゲエ・クラブ)とか遊びに行ってて。俺も三年の夏に引退してからみんながやってるパーティーみたいなんに寄せてもらって、それで一番最後に『RIDDIM CREW』っていうのに入った訳よ。でもそれもまだ高校生の遊びの延長みたいな感じやから。クルーの名前も雑誌の『Riddim』から取って。

 

●あ、やっぱりそこからなんですか。

 

そうそう(笑)。初めはセレクター(※レゲエの世界の“DJ”の意)をやってて。

で、そのある日、また高校生のパーティーみたいなんで、たまたま歌うことになったんよ。でそれが何か……何のうたを歌ったんやったんかなぁ? 何かのうたを歌ったら凄いバカ受けして、「これめっちゃ気持ち良いやん……」みたいな感じになって、でDeeJay(※レゲエの世界の“歌い手”の意)やろうみたいな。そっから始まった訳よ。

 

●それが、90何年ぐらいですか?

 

俺が18の時やなー、それ。だから今43やから、26年前? 94年か。

で、これは忘れへんねんけど俺、その年の11月18日、俺の誕生日やねんけど。たまたまその日がRIDDIM CREWとしてちゃんと?クラブでPlayする初めての日やって。だから俺のデビューは18の年の11月18日から、っていう何となく自分の区切りはあってさ。

一番最初に主催したイベントはうちとHACNAMATADAで東三国の『ジャグー』っていう小っちゃいクラブでやって。でも俺らも何も分かってないから、サウンド同士が一緒に出るイベント自体を“クラッシュ”やと思とってんやんか。フライヤーにも「RIDDIM CREW vs HACNAMATADA」ってでかでかと書いて。

で、後から聞いてみたら“CLASH”って書いてあったのにただの馴れ合いみたいなイベントやって「何やねん、アレ」ってなったっていうのは言われてんけど(笑)。

 

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●そしてランキンさんプロデュースの『LARGE UP』でTAKAFINさんとのコンビ『CHAMPION』でCDデビューを果たす……と。『CHAMPION』の時って何歳ぐらいやったんですか?

 

あの時は18か19。

 

●へー、そんな若くして! やもう、ぼく『LARGE UP』もそうなんですけど(※『LARGE UP』の続編的な一作)『BAD CHOICE』が初めて買ったジャパレゲのCDですから。本当冗談じゃなく腐るほど聴いた一枚ですね、アレは。

 

俺は若すぎて恥ずいけどな〜(笑)。

 

●その頃のジャンボさん話でいうと、イベントでBOY-KENにいきなりクラッシュを仕掛けていた、っていうのは聞いたことがあるんですけど(笑)。

 

いやあの頃はほら、音源そこまで出る時代じゃなかったやんか。有名になる道筋が少なかった訳よ。俺なんかは単純にさ、その頃NINJA MANとかを見て「うわー!」ってなってからさ。方々でそーいうことをやっててんやんか(笑)。

懐かしいな。俺なんかめちゃくちゃ下手くそやったけどなあん時(笑)。

 

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●現在のジャンボさんに至る片鱗は既にその頃から(笑)。ええと、これは大事なところなんで改まって言うんですけど、その時代にあの伝説のクルー『TOKIWA』が結成される訳ですよね。僕らは当たり前のようにそこにあったものだけど今の子にTOKIWAってなんて説明したらいいんでしょう? 本当に、日本語レゲエのターニングポイントだったと思うんですけども、どうですか今振り返ってみて。

 

めっちゃ偶然っていうのもあったかな。同じぐらいの歳の、同じぐらいの熱量を持った奴らが、たまたまこう…遊ぶようになって。でもその頃ってイベントとかやってもあんま人入れへんから。

 

●ちょうど90年代後半で、ジャパスプとかの第二次レゲエブームが終わった直後、ですもんね。

 

なんかもう、こんだけ一緒にやってんのやったらユニットみたいな感じで?みんなで組んで一緒にやろうかって話になって、『TOKIWA』が始まったみたいな。

 

●でも皆さん全員今も第一線でやってらっしゃいますよね。

 

うん、そやな。それは嬉しいことやわ。

 

JTB(※MIGHTY JAM ROCKのDJ集団。JUMBO MAATCH、TAKAFIN、BOXER KID)の3人もそうですが、それに加えてNG HEAD、RYO the SKYWALKERPUSHIMがあの時代に集まった、っていうのは本当に奇跡的なことだったと思うんですよね。もちろんカツさん(PAM PAM)やまっつんさん(ALTO DE MILO)やKYARAさんROCKさんのサウンド勢もそうですし。

 

すんごい狭いところでな、しかも。

とりあえずはみんなで曲書いて、DUB録って、小さくやけど盛り上げて行こう!みたいな感じやってんけど、PUSHIMがメジャー決まって東京行くってなって、で次RYO君がメジャー行って、それでみんなの意識もまた変わりはじめて。

 

●その頃マイジャ(MIGHTY JAM ROCK)は「謎のミックス集団」だった頃ですか。

 

そうやなぁ。TOKIWAの中の『TOKIWA STAR』っていうSOUNDのメンバーでもありつつ、その中にミックステープを作る部門、っていうのがあって。そこでやってたんがKYARA君とROCKで。

で、(TOKIWAが)解散することになって、俺らJTBとそのミックス集団で『MIGHTY JAM ROCK』になって。RYO君とNG君とPAM PAMで『CASINO 891』になって。PUSHIMPUSHIMでソロになって。

 

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●HIP HOPアーティストとの初の絡みもその頃ですか? 2WIN DOPE(※故・DJ KENSAWとラッパー・1LOWのユニット)の『GHETTO RED HOT』の客演で。

 

うん、一番最初はKENSAW君かなー。

KENSAW君は俺らの地元に住んどって。俺らの同級生の家族が住んでるようなマンションに一人で住んでてさ。

 

●吹田でしたっけ?

 

吹田、吹田。

でなんかいきなり電話かかってきて「ちょっと話聞きたいから来てくれ」って言われて。しばかれんのかと思ってさ(笑)。

 

●ダッハハハハ。

 

その当時やしや、KENSAW君って何か恐いイメージあったから(笑)。でもいざ会うて話したらすっげぇ良くしてくれて。で、「ちょっとこーいうのがあるからやってみーひんか?」ってことになって。

 

アレはでも……ドープやったなぁ〜!!

 

●そうですね〜。『GHETTO RED HOT』って30代以上の日本語ラップおたくの子ぐらいでゆいいつ分かると思いますし……

 

アレはレアやで!

HIP HOPもそうそう…俺けっこう絡みあって。挙げてく? 大阪やったらWORD SWINGAZやろ。

 

●ワードスインガーズ! 懐かしい! ぼく『一本のマイク』が好きだったんですよね!!

 

で、TOKONA-Xともやってるやろ。『Guess What?』のRemixで、バック・トラックが刃頭くんで。まだTOKONAもブレイクする前の頃。

 

●すげぇ! ILLMARIACHIですよね!! 実はそのコンビで『さんピン』にも出てるっていう。

でも当時はトコナメさんとかもまだ10代で、誰も知らないから客がドン引きしちゃってそこだけビデオにも映ってないという……(苦笑)。

 

そうなんや(笑)。

 

●で、そっからトコナメさんが東京を敵視するようになった、っていうのはよく言われますね……(笑)。

 

ああ〜、だから俺がもし東京の人間やったら、あの当時そーいうリンクはなかったかも。

すげーいい感じやったで、TOKONAは。慕ってくれて。

 

●大阪に来たら一緒に遊んだ、とかあるんですか?

 

ああもう来たら会いに行ったし。

でもブレイクしてからはあんま会う機会ってなかってんや。それが、死ぬ何ヶ月か前かな……久しぶりに会って。

「何かめっちゃ変わってたら嫌やなー」みたいな? 周りからも色んな噂聞いてたから。

けど全然変わってなくて!! めっちゃいつものいい感じのTOKONAやって。何か安心したん覚えてるな……。でもその後訃報を聞いて、がく然となったのも覚えてるし……

 

●本当そういう話を聞くとね、ジャンボさんの歩んできた道のりの「重み」を感じますね……

 

けっこうな、絡みあんねん。ラッパ我リヤともやってるし。

 

●えっそうなんですか!?

 

そうやで。HASE-T君のコンピレーションで、昔な。

あと誰おったっけな……あ、もやってるやろ。知らん? ベースのKEN KENも一緒に参加してるやつ。あのー、太華くんって分かるかな?

 

●分かります分かります、ビートボクサーの。

 

太華くんの作品でみんなで一緒にセッションしたやつで。それMVもあって今でもYouTubeで見れんでー!

 

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……今でもそう思うねんけど、やっぱレゲエのDeeJayとラッパーってリリック書く角度もちょっと違う?

 

●もちろんそうですよね。だから、僕も両方聴くからこそ思うんですけど、よく「REGGAEとHIP HOPは兄弟!」って言うじゃないですか? でも「性格は全然違う兄弟だから」っていうのは声を大にして言いたいんですよね。

 

ほんまに違うと思う。方程式も違うし。

ラップの方がよりパーソナルな話? レゲエのDJはもうちょっと広く取れる話っていうか、めっちゃこう、大きく分けたら。

うーん、そうやなぁ……でも日本語の使い方、リリックのクオリテイではまだHIP HOPの方が、レゲエより上行ってる奴が多いと思う。

 

●うーん、そうかも知れないですね…まぁもちろんその、あくまで「平均」っていうことで今おっしゃってる訳ですけど……あのー、あの人誰でしたっけ……「洗濯物干すのもHIP HOP」の人。

 

ZORNな。

 

●そうその人。今のお話聞いてて、めちゃくちゃあの人の曲が頭に浮かんで。古くはライムスとかもそうなんですけど、あれだけガッチガチに韻踏んでて、でも日本語として全く破たんしてないって凄いと思うんですよね。

 

いやあいつは凄まじいで。文学に近いよな、もう。

 

●あのーあの人の曲だと『LETTER』って分かりますか? “奥さんの連れ子に手紙を書く”って内容なんですけど。それが本当に良い曲で、「決して金じゃ買えない時間、印鑑だけじゃない責任感」とか「洗濯物別でもまあOK、金づるでいい買い物誘え」とか「お前らが生まれた日は知らない、でも過ごした時間は血よりも濃い」とかもう全編通してパンチラインの雨嵐で。まさか日本語ラップ聴いて涙が出てくるなんて……俺子どもも居ないのに。

 

しかも安いお涙頂戴じゃないやん。それもやっぱ凄いと思うな!

 

……でも、歌詞の世界は確かにそうかも知らんけど、現場のパフォーマンスの差やったら、俺は意外とまだ、レゲエの奴らの方が平均点は高いと思う。何となくやけど。

 

●そこは譲れないとこですね!

 

だからお互いのこと何も知らん客が、「バーンッ!」って両方のSHOW見せられて、「良かったな」と思うんは、俺は多分まだレゲエの方が……とは思ってる。

 

●そこはやっぱりレゲエ界の重鎮としては(笑)。

 

あくまで平均の話な! でもめちゃくくちゃフラットに見てんで、俺は両方好きやから。

 

●あのー例えば今、ジャンボさんのレーベルの子でもあるすけど、『変態紳士クラブ』とかも居る訳じゃないですか。

 

おおVIGORな。

 

●『変態紳士』とか僕すげぇいいなと思ってて、REGGAEとHIP HOP、両方の良いところをばっちり兼ね備えてるし、音楽性もすげぇし。何やかんや日本の未来は明るいな!と思うんですよね。

 

 

あいつら良い感じのハイブリッドやな!

だからあの世代に引っ張ってもらうべきやと俺は思うんやんか。別に完全に任せた訳じゃないけど、やっぱこーいう音楽って若者のこう…パッションが「ガァー!」って詰まったモンやと思うんやんか、それはジャマイカやNYでもそうやと思うし。

だからやっぱり若い奴らに後先考えんと爆発して欲しいと思う。俺らもそーいう風にやってきたから!!

 

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●さてJUMBO MAATCHヒストリーに戻ろうと思うんですけど、『TOKIWA』を経て、時代は2000年代に突入し、あの第三次レゲエブームがやってくる訳ですよね。

マイジャはMIGHTY CROWN主催の『横浜レゲエ祭』と並ぶBIGフェス『HIGHEST MOUNTAIN』を手がけ、日本中に旋風を巻き起こす訳ですが……ええと資料で持ってきた『HIGHEST MOUNTAIN 2004』のDVDのライナーノーツを読むとですね、

「MTVのインタビューでJUMBO MAATCHは図らずもこう言った。『“HIGHEST”を始めた頃は1000人を目標にしてて、それがいきなり達成できて“ああ良かったな”と思った』」と。

でも簡単に言ってますけど1000人でもだいぶ凄いと思うんですけど!?

 

うんうん。凄かったよ。それがどんどん増えていって、倍々ゲームで。最初ベイサイド(ジェニー)でやって、二回目もベイサイドで、そっからマザーホールってとこで二回ぐらいやってんけど、そこも難波にあっためっちゃでっかいハコで。ちょうどその当時、三木君の『LIFETIME RESPECT』もHITして。で、それでまためちゃくちゃ客増えて。で、「野外でやろう!」ってことになったんやな。

この前(2003年)に、既に『横レゲ』が外でやったんやんか。で、CROWNのみんなにも“今だったらいけるから、絶対野外でやった方がいいよ!”って背中押してもらって、ほんで舞洲でコレ(※初めて野外開催された04年度のHIGHEST)になるんやんな。

 

●この時、関西で行われたレゲエの、日本人アーティストだけのフェスで初めて集客が万を突破するんですよね。その前年に、初めて野外開催された『横浜レゲエ祭』が1万人を入れて。

で、翌2004年に『HIGHEST』も初の野外開催になるんですが……まぁものの見事に1万3千人を記録しまして!! まぁ〜本当当時のブームとも相まって、日本レゲエのひとつの「到達点」になるんですが、ど、どうですか今振り返ってみて。もちろん当事者なんで大変なことの方が多かったと思うんですが。

 

まぁあの、「どこまでも人!」みたいなんはやっぱ感激したけどな。うん。

でも結局その後、3万とかも入ったけど、もう1万も3万も目視できる人数ってそんな変わらへんつーか(笑)。

 

●ハハハ。でもやっぱねぇ、こみ上げてくるもんは!

 

そりゃもう、最高やったで!! もちろん大変なこともそりゃあったけど。

 

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●やもう、だから俺らの世代からしたらね、こーいうのをリアルタイムで経験してるから、本当「JUMBO MAATCH」ったら大スターな訳ですよ!!  だから今の『ダンジョン』とかでね、10代のラッパーなんかが「知らねーんだよ!!」とか言って噛みついてるのを見ると「おいコラちょっと待てぇ!!」ってね、ムチャクチャなりますよ(笑)。

 

まぁ俺も向こうのことよう知らんけどな(笑)。

 

 

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●そろそろ『ダンジョン』の話に行こうと思うんですけど……とりあえず『ダンジョン』が決まった経緯と言うのはどんな感じだったんですか?? 皆が気になってると思うんですが。

 

あれは〜去年の5月ぐらいやったかな? 『I&I PRODUCTION』って分かる? ジブさんの所属事務所の……双子の人らがやってる。

 

●わかります。

 

その人らって(ラスタ用語の)『I&I』ってつけるぐらいやからラスタやねんか。

 

●ばりばりのラスタの人らですよね。昔、ガーネット・シルク(※94年末に急逝した伝説のレゲエ・シンガー)の最初で最後の来日公演も主催したという。

 

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そうそう! それに三木(道山)君が行ってな、この前インスタにガーネットと写ってる写真上げとったもんな。

 

●へーそうなんや! まさに「歴史」ですねー!!

 

その『I&I』の人から電話があって。俺てっきりさぁ、前に一回「レゲエチーム」みたいなんで『ダンジョン』出たことあるやんNG(HEAD)君とかKYO虎とかさ。あれの第二弾みたいな感じでオファー来んのかと思ってさ。正直それやったら断ろうと思とってんやんか、何か二番煎じみたいやし。

で話聞いたら「いやそうじゃなくて。もっと納得できるいい話を持ってきた」って言うから。「ええっ、何すか!?」って聞いたら……「いやモンスターなんだけど」って言われて。

「ええっ!?」ってなって。三回ぐらい聞き直して(笑)。

「とりあえず今ZEBBRAも横居るから」って言われて、でジブさんと電話替わって。

「何でオレなんすか!?」って聞いたら、前のクラッシュもあるし、音源も聴いたし、総合的に判断してオファーさせてもらった、と。「ええっ〜!」ってなって。

 

●まぁ普通そうなりますよね(笑)。

 

まぁ自分の中では半分もう即答やってんけど、でも一回周りのやつにも話してみようかなと思って、何人かに相談もしつつ…で三日後ぐらいに電話して「お願いします」って。でもそれ決まってから収録まで2ヶ月ぐらい何も音沙汰なくてさ。

 

●「あの話は何やったんかな?」みたいな(笑)。

 

「流れたんかな?」みたいな(笑)。でもまぁ実際来てさ。それで始まったわけよ。

 

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●実際に収録が始まってみてどうでした??

 

一回目の収録はとりあえず俺出るだけで。「モンスター襲名披露」みたいな。で、最後のモンスターをトーナメントで決めるみたいな回やってん。

まぁ今までダンジョン自体もチョコチョコは観ててんけど、二代目になってからはそこまで観てなかってんや。で、「どんな感じなんかな〜」と思ってバトル見てんけど、あのトーナメントって色〜んな今までの、その1年半ぐらいの二代目のドラマとかさ、全部詰まった凄いやり取りやってんやんか。それ見て正直震えてもうて。

「こいつらこんな凄いレベルでやってんの!?」みたいな、無茶苦茶自分の中でハードル上がってさ。

 

で、まだちょっとフワフワな気持ちの中で出たんが初めてのバトルで、思い切りクリティカル負け(※クリティカルヒット=審査員満場一致。『ダンジョン』ではこれが出た時点で試合が即終了となる)した時。

 

今まで20何年間色んなSHOWとかも出たけど、一番緊張したな〜あの時が。

 

●いやーそうだと思います。もうある程度キャリアがあって……て言うか「ある程度」どころじゃないし、アーティストとしては本当に日本のレゲエシーンを作ったと言って過言じゃない訳じゃないですか。そーいう立場の人が「行く」っていうのは本当にプレッシャーも並大抵のことじゃないと思うんですよね。

 

あくまで俺は個人やと思うけど……でもそうでは許されへんところもある訳やん?

 

●立場上「レゲエ代表」になりますからね。

 

そう。俺がクリティカルでいきなり負けて「レゲエって全然いけてないな」みたいに言われたら凄いプレッシャーやしさ。

 

SNSで“ジャンボマーチ”でエゴサするとやばかったですよね(笑)。

 

「ゴミクズ」とか書かれたからな。バリ傷ついたもん(笑)。

 

●あの言われようは僕らからしてもクソむかつきましたけどね!!

 

やーでも内容が内容(※連続クリティカル負け)やったからー。あん時は同業者の後輩とかに会うのめっちゃ嫌やったもん……。みんな別に何も言えへんけど、やっぱ見てるハズやし。

 

●や、でもアレはねぇ、僕らとしても「これは……どう接したらいいんだ……」ってねぇ、なりますから(苦笑)。

 

このインタビューっていつ上がるん?

 

●コレもう今月には上がりますよ(とか言いつつだいぶ遅れてしまいました。スイマセン!)。

 

あー今月やな。オレ『ダンジョン』で初めて勝ったのって三回目の収録やねん。

U-MALLOW』って奴と『BATTLE手裏剣』って奴と二人当たってんけど、そのU-MALLOWって奴には負けて。でもそれはまだ自分の中でもちょこっとだけ?形になり始めたところがあったから、「まーなんかこの感じで行けんのかなー」みたいに思って。で、次にBATTLE手裏剣と当たって、そこで初めて勝てた訳よ。

 

もうめちゃくちゃ嬉しくて……。

 

●涙なしには語れないですよね……。

 

でもそれも、言ったら10月とか11月ぐらいに終わってんのに、オンエアーが来年になってまうやん。

 

●ああ〜、もどかしいですよね。

 

やし、オレも負けたままで年終わるしや。「何か複雑やなー」と思いつつ、でも一勝したっていう安心感もめちゃあってんけどな。で、そのパッと晴れた気持ちで挑んだんがあの正月特番の『Monster's War』であって。

 

●ジャンボさん輪入道(※同番組の二代目モンスターも務めた現時点での日本における最重要ラッパーの一人)とサシで当たって勝ってましたからね〜。オレ家でAbemaTV観ながら感動で泣きそうになりましたよ!!!

 

めちゃくちゃ嬉しかったけどなアレは。輪入とかマジ凄いからさ。

 

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●ねぇ! でも結果は負けでしたけどU-MALLOW戦も凄い評判良いですよね。既にベストバウトとの呼び声も高いですが。YouTubeにサンプリングされた動画まで上がってますよ。

 

あの下ネタのやつな。よう出来てるからなしかも(笑)。

 

●「やばいこんなモンまで作られるようになったのか!」と(笑)。でもノーティーバイネーチャーのオケに自然に溶け込んでて、「ジャンボさんこんな引き出しもあるんだなー」と、凄い見てる側からしたら新鮮でしたね!

 

いやあーいうオーソドックスなトラックは全然行けんねんけど、ほら今『ダンジョン』ってルーレットあるやん? アレが自分の中では一番キツくて。

なんかオファーもらった時には、まぁまぁ軽い感じで「新しくルーレットみたいなのが入るかも知れない」って聞かされとったんやんか。で実際始まってみたら「これめちゃくちゃ大事なシステムやん……」みたいな。対策しようがないっていう。

 

●もうありとあらゆる速さのトラックで練習するしかないですよね。

 

小節もそうやしや。8×2、8×3、8×4、か、16×2か、32×1か。アカペラ1分2本か。それ、バトルの直前になるまで分からへん。ホンマに。

 

●難しいですね……。

 

めちゃくちゃ難しいよ! で、そのオレのテンパリの集大成が最初の連続クリティカル喰らった時の、あの収録で。

 

●見てる僕らからしても『ダンジョン』は、初期の8小節2本勝負っていうのがどーしても馴染みがあるんですよ。3本目まで行くと「アレまだ続くの?」みたいになるし。外野の自分たちですらそう思うんだからそりゃやってる当人らは……

 

8の2とかやったら、別に勝てるか勝たれへんかは分からんけど、乗せんのはまぁ、簡単っていうか、何となくイメージはしやすいやんか。それが例えば、LOWビートの8って言われたら、もうHIP HOPの奴らやったら倍で取ったりするからさ。

 

●ああもう最近のTRAPノリで。

 

だから16になってまう訳よ、同じ8でも乗せ方次第では。

そこの計算もあるし……なかなかアレは今後も油断でけへんシステムやな。

 

●コレは本当に企業秘密になっちゃうと思うんですけど、練習とかいつもどんなことしてはるんですか?

 

書かんといてな? 実は……

 

(※マジで大変面白い裏話だったのですが、もちろんすべて掲載できません!! 悪しからずww)

 

●はぁ〜! モンスターになってからのバトルの裏側ではそんな研鑽の日々が!! さすがっすジャンボさん!!

ええと、コレは本当に書く用の質問なんですけど(笑)、「モンスター」の中ではやはり韻踏合組合のERONEさんが同じ大阪で、しかも同世代だしずっとLINKはあると思うんですが、最初に会った時ってどんな感じだったんですか??

 

もう昔すぎて全然覚えてない(笑)。何か…メンバーの誰かは覚えてないねんけど、I to I(※かつて大阪にあった伝説的クラブ)あるやん? あそこの前で声かけてくれて。「僕ら今こんなグループやってて、こんなTシャツあるんで、もらってください!」って言われて、もらったんが、「韻」っていう字を踏んでるTシャツで。「何か面白い奴らおんねんなー」っていうのが韻踏の第一印象。そっからはもうずっとさ、同じ大阪で……同じ大所帯のグループやから。

HIDADDYも今でも家近いし、お互いの子どもも同じ小学校やし。

 

●大阪リンクはね、良いですよね!!

 

気ぃついたらR(※ラスボスR指定)も大阪やしさ。モンスター7人中3人は大阪勢っていうな(笑)。

 

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旧知の間柄のHIDADDYのショップ『一二三屋』へ。

 

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●今、日本自体が「終身雇用制」とかも無くなってる訳じゃないですか、ほぼほぼ。ぼくぐらいの歳でも周りに転職したやつとか多いんですけど、今のジャンボさんが出てる『ダンジョン』の話になって……。まぁジャンボさんがレゲエ辞めた訳ではないんですけど(笑)、やっぱジャンボマーチも、俺たちの青春のスターも、ああいう全然畑ちがいの環境でかましてるんだからオレも早く新しい職場に慣れなあかん、とか言うんですよ。

そーいう意味でもリスナーに勇気を与えてるんだな、って凄い肌で感じましたね。

 

それは嬉しいな。オレも別にそうしようと思ってやってる訳じゃないけど、それがそんな風に結果としてついてきてくれてるんやったら……。

 

●僕とかは『ダンジョン』は凄い良かったと思ってて。特に僕らの世代からしたらマジで雲の上の存在な訳じゃないすか、ジャンボさんて。今普通に喋ってますけど。でもそんな人でも、あんな風に若い奴に負けて恥かかされて、凹んだりするんだと。“人間”ジャンボマーチが見れたというか。

 

……めちゃくちゃ凹んだでほんま。今だから言えるけど対戦相手の奴捕まらへんかなーぐらい思ってたもん(笑)。

 

●ワハハハハ!! それはばっちり書いときますよ!(笑)

 

「笑」は付けといてや(笑)。まぁ〜SNSも全然見たなかったし。訳分からんDM送ってくる奴とかもめっちゃおんねんやんか、ダンジョンやり始めてから……。無視するんやけど。

 

●いやでも、そーいうところに飛び込んだっていうのはやっぱり勇気がないと出来ないことですよ!

 

単純にオファーもらった時は嬉しかったけどな、こんないっぱい居る中でオレ選んでくれて。しかもこの歳でさ、そんななかなか新しいことに挑戦する機会なんてないやん? そーいうチャンスも与えてもらったし。

 

●素敵ですよね。43歳になってもまだまだ色んなことがやれるんだっていう……

 

モンスターの奴らみんないい感じで輝いてるから、話してても気持ち良いよなやっぱ。あの意識の高さをレゲエの畑にも持って帰りたいし!

 

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アメ村のレゲエスポット『E.S.P.』にも寄り道。

 

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マイジャのCDジャケを第1作目から手がけるMURASAKI氏作のミューラルアートと一緒に。

 

●そろそろ〆ようかと思うんですが、では最後に今後の展望などを。

 

あのー俺この歳になって、一年を計画的にやることの重要さを凄く分かってきて(笑)。今年はもう、やろうと思ってること4個か5個ぐらいあって、それを遂行できたらなと。

BEAN BALLっていうレーベルを俺やってっから。それで三作品ぐらい今年は出そうかなと。それプラス、マイジャの20枚目のアルバム。プラス、「ダンジョン頑張りまーす」みたいな。

面白そうなアーティストとのコラボの話も既にいくつかあるんで、それも話題にできたらいいなと思ってます。

 

取材協力 / ロケーション
『一二三屋』
大阪府大阪市中央区西心斎橋1丁目8−16 中西ビル 4F
tel: 06-6245-4646

 

『E.S.P TRICKSTAR osaka』

大阪府大阪市西区南堀江1丁目9−6

tel: 06-6532-0111

 

 

 

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【ARTIST profile】

侠気にこだわったラガな生き様を図太い声で伝える、大阪生まれ・大阪在住のレゲエDeeJay。1990年代半ば、アメフトかレゲエかの人生の岐路に立つも、18歳でTAKAFINらとRIDDIM CREWを結成。セレクターとしてキャリアをスタートさせ、ほどなくDeeJayに転身する。

1998年より、MIGHTY JAM ROCKのメンバーとして活動。同クルーのTAKAFIN、BOXER KIDとの3人ユニットでのアルバムを2001年より毎年リリースし、2017年は17枚目を完成させた。ファーストアルバムは「3 THE HARDWAY」、最新作は「THE WARRIORS」。

2017年には、"危険球"の意味を持つBEAN BALL RECORDSを自身のレーベルとして設立し、同年・同レーベルより初のソロアルバム「the MUDER CASE BOOK」をリリース。ストリートカルチャーのみならず、国際情勢や社会問題などにも目を光らせ、外道をぶったぎるスタイルは痛快だ。彼は、まさに武闘派の雄。その攻撃性は年々磨きがかかり、男たちを奮い立たせている。

自分自身が教わったレゲエの魅力を世に還元し、良い意味でレゲエに捉われ続けたいと将来を展望する。

Twitter:@papamanchi Instagram:@jumbomaatch

 

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【PHOTOGRAPHER profile】

1999年の春、サウンドマンに誘われて初めて行ったCLUBで聴いたDANCEHALL REGGAEに衝撃を受け、その後REGGAEにどっぷりハマる。

2002年 当時足繁く通っていた滋賀のCLUB RAGEのスタッフ YASSALに誘われREAL ROCK SOUNDを結成、セレクターとして活動し始める。
その数年後REAL ROCKを脱退し、YARD Hi-Fi SOUNDに加入、現在はTIGER BALMというセレクターネームで年に数回活動中w

カメラマンとしては、2008年趣味でカメラを始める。
写真の魅力にとりつかれ、出演するDANCEの現場でも自然と撮影し始め、遊びに行った先でもゲリラ的に撮影を敢行。
2018年、縁あって「JERK CHICKEN」 Jr.Dee の7インチレコードジャケットを撮影。
現在、小箱から野外フェスの撮影はもちろん、アーティスト配信曲のジャケット撮影や、宣材写真、幼稚園の運動会から飲食店の物撮りまで行い、撮影対象は幅広い。
笑顔を撮ることをモットーとしている。

Instagram:@tiger_balm_man

 

 

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【SOLO BANTON】

ライター / デザイナー。全国各地のフライヤーやCDジャケットをPOPに美しく彩る『ソロバングラフィック』代表。また音楽ライターとしても活躍し、特に日本のレゲエシーンにおけるトレンドを生み出す重要人物として広く知られている。

Instagram@solobanton.desu

【保存版】平成最後の大総括! 日本語レゲエの30年史

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89年 〜始まり〜

日本のレゲエはどこから始まったのだろう?

梅木マリの『マイボーイ・ロリポップ』であろうか? 中川ゆきの『東京スカ娘』?

それとも坂本龍一がプロデュースし、ジャマイカレコーディングも敢行された『トロピカル・ラブ』だろうか??

はたまた、『サンスプラッシュ』出演も果たした若井ぼん師匠の『商売繁盛じゃ笹持ってレゲエ』??

 

……挙げていけば切りがないが、ダンスホールで。そして、“今のシーンにダイレクトに繋がる”という視点で考えるとRANKIN TAXIの処女作『火事だぁ』を“始まり”とすることに異論を挟む余地はないかと思う。

 

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当時のランキンさんは“某ゼネコンを脱サラした異色の社会派ラッパー!”として、既に東京のサブカル界隈では知られた存在。サラリーマン時代の83年に二週間の有給を取って初めて行ったジャマイカダンスホールカルチャーの洗礼を浴び、暗中模索しながらレゲエの道へ。レゲエDeeJayとしては87年、88年、89年と、三年連続でジャマイカの名門フェス『SUNSPLASH』に出演し、自身が率いる日本最古のサウンド・クルー『TAXI Hi-Fi』は、自前のサウンドシステムと共にこの時点で稼働済み……と、まさに「日本」と「ジャマイカ」を繋ぐ“親善大使”であった。

 

 

80年代の伝説の深夜番組『FM-TV』で『AGONY』のリディムで歌うランキンさん。

 

当時の『レゲエマガジン』に掲載された「日本レゲエDJ名鑑」には、そのRANKIN TAXI含むまだ20名にも満たない全国のMIC持ちのバイオが載っているのみ。

文字通り、日本にレゲエの“レ”の字も、またヒップホップの“ヒ”の字もなかった時代に、ALL日本語リリックで、一枚のダンスホールレゲエ・アルバムをリリースしている功績はあまりにも大きい。

 

当コラムでは『火事だぁ』がリリースされた1989年、平成元年を“日本語レゲエ元年”とし、平成が終わる2019年に、30年に及ぶ日本人による母国語のレゲエ・ミュージックの歴史を駆け足で辿っていこうと思う。

饒舌に過ぎるだろうが涼としてもらえれば幸いだ。

 

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89年当時のTAXI Hi-Fiのイベントフライヤー

 

90年代

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1990年『MAXI PRIEST / CLOSE TO YOU』の全米チャート1位獲得から幕を開けた90年代、直後にボブ・マーリー以来となる世界的な第二次レゲエブームが巻き起こり、日本でも『JAPAN SPLASH』などの大型フェスに数万人が集うようになる。

「日本人による日本語のレゲエ」はまだ生まれたばかり。

当時は、「日本語でレゲエが歌えんのか?」「そもそも日本人にレゲエがやれんのかよ?」というような論議もまだ盛んになされてるような時代であり、前述の『JAPAN SPLASH』も出演者の90%以上が外国人レゲエアーティストで占められている。

 

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92年にリリースされた日本初となるワンウェイコンピ(※)『HARD MAN FI DEAD』を聴くとよく分かるのだが、日本語で歌うアーティストも居れば、パトワ(ジャマイカン・イングリッシュ)で歌うアーティストも居て、まさにまっぷたつ。当時のシーンを取り巻く空気感が伝わって来ると思う。

「そーいう時代」だったのだ。

 

※収録されてる楽曲がすべて同じバック・トラックを使用しているレゲエミュージック特有のアルバム形態。ちなみに史上最も売れたワンウェイものは『Diwali』。

 

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90年代初頭を象徴するようなアーティストといえば、まずは何と言っても「NAHKI」であろう。

80年代後半より長期の海外武者修業を経験し、ジャマイカでは年末恒例のBIGフェス『STING』にも出演。もちろん歌うリリックはすべてパトワ! JAPAN SPLASHを運営するタキオンがマネージメントを務めていたこともあり、「日本人としてゆいいつジャパスプに出れる逆輸入アーティスト!」として鳴り物入りで注目を集める(※本当はナーキさん以外にも出演してた日本人はいるのですが、まぁ所属アーティストのナーキさんが一番出演回数多かったので)。

 

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この頃、地下シーンではラッパーもレゲエDeeJayも入り交じってのMCコンテストが盛んに開催され、後年に繋がるFOUNDATION(土壌)が形成される。また、東京のV.I.Pレーベルからは良質な日本人アーティストの7インチレコードがコンスタントにリリースされ、その中からは『TWIGY / 夜行列車』のような、日本語ラップのCLASSICとして語り継がれるような作品も生まれている(※『夜行列車』はV.I.P BANDが制作したレゲエのリディムに乗せた曲。同オケでワンウェイも存在する)。まだまだ全体数が少なかったこの時代、REGGAEもHIP HOPも渾然一体となり、文字通り「共闘」していたのだ。

 

 

94年には『BOOGIE MAN / パチンコマン』がHIT。同曲はオリコンチャート入りも果たし、ブギーマンは『HEY! HEY! HEY!』に出演してダウンタウンとも共演。一躍時代の寵児に(※ちなみに当時ブギーさんは『爆走兄弟レッツ&ゴー!』のEDも歌っております)。

 

しかし、『パチンコマン』は普段の現場さながらのユーモラスなリリックであったが故に、中には「日本人のレゲエってお笑いでしょ?」的な、色物目線で見るリスナーも少なくなかった。奇しくも翌95年にはHIP HOPシーンから『DA.YO.NE.』のHITも生まれ、こちらはオリコン最高7位。同年に紅白出場も果たしていたためバッシングも『パチコンマン』の比ではなく、「日本人が日本語でやるラップやレゲエ=色物」という世間の偏見に、ラガもヘッズも当分苦しめられることになる……。

 

そうこうしているうちに爆発的なレゲエブームは95年辺りでピークを迎え、以後下降線をたどる。雨後のタケノコのように都内にオープンしていたレゲエ系クラブも次々に閉店し、蜘蛛の子を散らすように週末のダンスホールからは人が居なくなっていった。

 

「レゲエバブル」の崩壊である。

 

冒頭に記した『日本レゲエDJ名鑑』にも名を連ねている、日本のダンスホール第一世代のアーティスト、CHAPPIE(現CHAPPA RANKS)は、当時を振り返って後年自身のブログにこんな記述を残している。

 

ブームが去ったあとは、嵐が去ったあとのように悲惨で、人々は手の平を返したように冷たくなっていった。

 

数年前に、有ること無いことを言いながら、ニコニコの笑顔で近づいて来た、あの人達は一体、何だったんだろう?

 

俺は、この時のことを生涯忘れることはないだろう。

 

CHAPPA RANKS BLOG:自分 HISTORY 第29話「ブームの終盤」より抜粋

 

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96年、レゲエ / ヒップホップ系の老舗フリーペーパー『Riddim』誌は“日本の年にしたい!”のスローガンを掲げ、日本人レゲエアーティストの一大特集を敢行。ブーム終焉後の新たなシーン形成のための舵を切る。

あのMIGHTY CROWN主催の『横浜レゲエ祭』も、この頃数百人規模のクラブからスタートしている。

 

この頃、海の向こうジャマイカでは既にレーベル『JAP jam』が活動を開始していた。

筆者は何と言っても同レーベルの代表曲であり、90年代中盤を代表する日本語レゲエ曲である『三木道三 / JAPAN一番』が忘れられない。

 

JAPAN一番 めちゃええ国やん

どの国もうちの国にゃかなわん

JAPAN一番 めちゃええ国やん

俺はこの国が好きでたまらん

 

外国尊敬しすぎたらあかん

押し付けられるな価値観

日本はかっこええやん

ここは俺らの国 JAPAN

 

21世紀の今、改めて聴くと「日本好きすぎやろ!」なリリックに思わず笑ってしまうが(笑)、同時に気持ちも痛いほど分かる。

「JAPAN」と「JAMAICA」。

同じアルファベット2文字から始まる国から輸入した文化を、日本人としてどう咀嚼(そしゃく)していくのか? 日本人としてここ日本で日本語のレゲエをどう根付かせていくのか?

先駆者たちは皆、葛藤していたのだ。

 

そして「ブーム」が過ぎたからと言って演者も手をこまねいていた訳ではなかった。

96年には伝説の『さんピンCAMP』にV.I.P CREWの看板DJ、BOY-KENが参戦。

野音を埋め尽くすヘッズ達の前で、唯一のレゲエアクトとして堂々としたパフォーマンスを見せつける。

 

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日本レゲエの黎明期より活動するアーティスト「BOY-KEN」は、もともとHIP HOPのオールドスクーラーDJ DOC HOLIDAY(現・須永辰緒)の元でラッパーとしてそのキャリアをスタートさせた人物。活動を続ける中で“レゲエ”に開眼するが、HIP HOPシーンとも変わらず深いLINKを持ち続け、両シーンの橋渡し的な存在としても大きな存在となっていた。

 

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98年にはV.I.Pクルーの5周年イベントがクラブチッタで開催され、当時の日本語ラップ、日本語レゲエのオールスターメンバーとでも言うべき面子が集結。

そして翌99年にはあの『DANCEHALL CHECKER』がリリースされ、V.I.Pクルーは日本のレゲエ、ヒップホップ、両方のシーンで永遠に「伝説」として語り継がれることとなる……。

 

90年代後半、レゲエは「冬の時代」に突入していたが、この時期のV.I.Pクルー、そしてBOY-KENのクロスオーバーな活動で「レゲエ」という音楽カルチャーに触れた人はとても多く、筆者もその一人である。

 

youtu.be

 

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そして90年代後半と言えば『TOKIWA』の存在を外す訳にはいかない。

 

同時代の日本語ラップに強い影響を受けた堅牢な押韻主義。また、関西の前世代とは一線を画す「シュッ!」としたたたずまいは、その後の日本語レゲエのスタンダードとなるものだった。

 

NG HEAD、PUSHIMRYO the SKYWALKER、JUMBO MAATCH、TAKAFIN、BOXER KID……

その存在が奇跡的すぎて残念ながら短命に終わったが、トキワの遺志は「謎のミックス集団」として同クルーから派生したMIGHTY JAM ROCKがしっかりと受け継ぎ、毎夏恒例の『HIGHEST MOUNTAIN』は、東の『横浜レゲエ祭』と並び日本を代表するレゲエフェスとして今も悠々とそびえ立っている。

 

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第一回目の『HIGHEST MOUNTAIN』のフライヤー

 

 

 

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90年代後半は、各地で大小さまざまなSOUND CLASHが行われていた時勢でもある。

実質的にMIGHTY CROWNが日本で参戦した“最後”のクラッシュとなった『頂点』などは、YouTubeに上がってる当時の動画をご覧になった方も多いだろう。

 

レゲエには“DUB”という、サウンドがアーティストに依頼して特注の曲を作る文化が存在するが、クラッシュの際は相手サウンドを攻撃する直接的な武器となるため、当日用の“仕込み”を含め、いつにも増してDUB録りが活発化する。この、90年代後半のサウンドクラッシュシーンの活況によって日本のレゲエDeeJayのスキルが飛躍的に向上したことは言うまでもない。

 

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その「恩恵」を最も受けたアーティストの一人が“濱の兄貴”ことNANJA MANである。

関西シーンでは語り継がれる伝説なのだが、「NANJA MANは90年代後半に大阪を訪れた際、DUBで稼ぎまくってその金でバイク買ってそれに乗って横浜まで帰った!!」というものがある。

 

後年、ぼくは本人に直接そのことを尋ねてみたことがある。「あの話はマジなんですか?」と……。NANJA MANはあの笑顔でことも無げに言った。

 

「あー、『乗って帰った』は話がでかなっただけなんやけどな。DUB録りでけっこうなお金をもらったのは本当で、『こんなん普通に持ってたら絶対アホなことに使ってまう!』と思って、それでこっち(神奈川)戻った時にそのお金でバイク買うたんよ」

 

まさに「STREET DREAMS」というか何というか……すげぇ話である!!

 

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そして90年代後半、日本で起こっていたクラッシュ・シーンの盛り上がりは、『JUDGEMENT』と『MIGHTY CROWN』という日本の2サウンドが99年にUK、NYで行われた世界戦でそれぞれ世界タイトル奪取!!という誰もが予想だにしていなかった形で身を結ぶ。

 

まさに世界のレゲエ史が塗り替えられた瞬間であり、JUDGEMENT(TUCKER)とMIGHTY CROWNはその後の日本語レゲエにも計り知れない影響を及ぼしていくこととなるのだった!!!

 

00年代

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『SOUL REBEL 2000』で大トリを務めたMOOMIN(写真右)

迎えた新世紀。西暦2000年という年は日本語レゲエのひとつのターニングポイントであった。

まず、秋に日比谷野外音楽堂で行われた第一回『SOUL REBEL』の成功。

これは(現在はwebに移行した)老舗フリーペーパー『Riddim』の発刊、また旧くはレゲエ映画『ROCKERS』の配給などで永きに渡りシーンをサポートしてきたOVERHEAT社主催のものであったのだが、日本人レゲエアーティストのみで、歴史と伝統ある野音の会場を埋めれた。という事実は一般層にアピールする意味でもとてつもなく大きかった。

そして時間軸は前後するが、この年の夏にはMIGHTY CROWN主催の『横浜レゲエ祭』が『サウンド編』『アーティスト編』と2 DAYSに渡って開催され、その時の模様は後に一本のVHSビデオにまとめられ、リリースされる。

まだYouTubeはおろかインターネットすら普及していなかったこの時代、日本人レゲエアーティストの動く姿を観ようと思ったら「現場」に行く以外はたまにスペシャで流れる特番を録画するぐらいしかなく、この映像ソフトが果たした意義は大きい。自分も含め、10代の頃あのビデオを食い入るように見ていた三十路レゲエファンは数知れないだろう。

 

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こうした先人たちの努力の結果、この2000年という年を境に「何か日本人のレゲエがやばいんじゃねぇか!?」という気運が徐々に高まっていく。

 

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そして『SOUL REBEL』 『横浜レゲエ祭』、前述の二つのフェスで共にバッキング・バンドを務めたのが『HOME GROWN BAND』である。

この時期彼らの存在が強く求められた背景には、やはり“PUSHIM”や“MOOMIN”と言ったレゲエシンガーが先がけてメジャー・デビューしていたことが大きいと思うが、本場ジャマイカではシンガーだけでなくDeeJayも大きなSTAGE SHOW(コンサート)ではバンドでやることが当たり前であり、彼らの存在があって初めて「本場さながら」のレゲエ・フェスがここ日本で実現できたと言える。

日本のレゲエ・フェスにおいてHOME Gは「必要不可欠」。まさに“日本のサジタリアス”(※)とでも云うべき存在であった!!

 

(※)サジタリアス・バンド……

鬼才デリック・バーネットが率いたJAのダンスホールレゲエバンド。特に80年代後半から90年代初頭にかけてジャマイカの主要なレゲエ・フェスはほぼ全てにおいてバック・バンドを担当した。

 

HOME Gは自らがプロデュースを務め、彼ら名義で何枚かのコンピレーション・アルバムも発表している。そんな活動の中から生まれたHITが名曲『星にお願い』である。

 

 

 

HOME Gとは同じ神奈川エリアをrep.するベテラン『H-MAN』と、シンガーNEOをゲスト・ボーカルとして迎えた本作は、ちょうど『横浜レゲエ祭』のアンセムとして広まった『MIX UP』という楽曲の存在もあり、“日本版MIX UP”としてレゲエ・リスナーから熱狂的に受け入れられる。男女のデュエットということもあり、筆者をはじめ現在30代のレゲエ好きにはまさしく“青春の一曲!”のひとつである。

 

ちなみに未だにこの曲を聴くと、10代の頃付き合っていた彼女とカラオケ屋で“じゃあおれH-MANやるからね〜”と言って、ふたりで歌ったことが思い出される。三十路になった今、30代の友達と話すと“それ俺もやった!”と言われることも多く、同世代はみんな同じことをやっていたんだなと(笑)。

 

“とにかく俺はキミとやりたい 三、四がなくても五でやりたい!って言ったら言うぜ彼女だいたい……”

 

あの子は幸せになれたのかなぁ。

 

そして激動の2000年が過ぎ、翌2001年は皆さんご存知『三木道三 / Lifetime Respect』が大ヒットした年である。

オリコン一位、累計売上枚数90万枚。という紛うことなき「大ヒット」。

『JAPAN一番』を唱え、“日本人として日本で日本語のレゲエをどう根付かせていくか?”という命題を日々模索していた男の“悲願”はここで達成されたのであった。

 

余談だが、この年16歳のぼくは先輩であったSIN'G-ROY(現SING J ROY)に導かれるように、北陸福井の片田舎でレゲエDeeJayとしての第一歩を踏み出している。

 

SUPERSTARのリディムに乗せて緊張しながら初めて握ったMIC。

クラブに行く時の勝負服はXXXLのペンディーンのアミシャツにペレペレのデニム。

街を歩けば流れていた『Lifetime Respect』。

 

ちょっと恥ずかしくてほろ苦い、オレの青春。

 

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左が「DJ編」で右が「シンガー編」。二枚を繋げると一枚絵が完成する。

2001年は、日本人イラストレーター・MURASAKIのイラストが世界最大のレゲエ配給レーベル『VP RECORDS』の長寿コンピ『STRICTLY THE BEST』のジャケットに起用されるという、ドラスティックな出来事が起こった年でもある。

 

もともと、CISCO大阪店の店長で、関西ファッション誌『カジカジ』での漫画連載や、カエルスタジオ関連のアートワークを手がけていたことでにわかに注目を集めていた氏であったが、この出来事をきっかけに日本全国にその名が知れ渡ることに。『STB』のジャケは翌2002年も引き続き担当し、この頃からMIGHTY JAM ROCKのアルバムアートワークや、夏の『HIGHEST MOUNTAIN』の公式フライヤーもレギュラーで手がけることになる。

一時期は、有名なレゲエ・サウンドが出す日本人コンピレーションアルバムのジャケのほとんどを氏のイラストが飾っている……なんてことも珍しくなく、まさに“時代”のアイコンのひとつであった。

 

LIMONIOUSのヘタウマな絵を見れば目に浮かぶのは煙モクモクの80年代のジャマイカダンスホールであるが、ムラサキさんのイラストを見ると思い出すのは皆がカラフルなタオルを振り回す2000年代の日本のフェスの風景である。

 

2002年には『MINMI / Perfect Vision』が、オリコン4位となるHITを記録。今に至る同アーティストのキャリアが本格的にスタートすることとなる。

同曲は元V.I.PバンドのメンバーでもあったKAMISHIROが手がけたもので、他には『Keyco / SPIRAL SQUALL feat. Chozen Lee』や、『MOOMIN / MOONLIGHT DANCE HALL』なども氏がRIDDIM TRACKを制作した作品。

00年代前半の日本語レゲエを語る上で上代さんが果たした役割は大きく、まさに“影の立役者”の一人と言って過言ではないだろう。

 

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FIRE BALLもこの年メジャーデビューを果たしている。 彼らがシーンに持ち込んだものと言えば“タオルプロペラ”だ。

もともと、“フェスでタオルをプロペラのように振り回す”のは、プロデュースを手がけるMIGHTY CROWNが『Iwer George  / Carnival Come Back Again』のDUBをかけてやったのがそもそものハシリであるが、FIRE BALLがメジャーデビューする際、『BRING IT ON』の振り付けとして採用し、日本中に広めたものである。

グッズとしてのタオルの売上は、フェスの収益を担保する上でも重要な財源のひとつとなり、『レゲエ祭』をはじめとする各地のレゲエ・フェスが拡大していく上で大きなエンジンとなっていく。

 

MIGHTY、そしてFIRE BALLが広めたタオルプロペラはジャンルの垣根を越え夏フェスお馴染みのものとなり、今ではアイドルのコンサートですらその光景を見ることができる!

 

 

この頃、海の向こうでは『Wayne Wonder / No Letting Go』がHITを飛ばし、同じ『Diwali』trkを使用してる『Sean Paul / Get Busy』は、ジャマイカ人レゲエアーティストとしては“初”となる全米3週連続一位という快挙を成し遂げる。MTVをつければJanet Jacksonと砂浜でワイニーするBEENIE MANの姿が映り、第三次レゲエブームが本格的に幕開けしていた。

そして、それはここ日本でも間もなく現実のものとなった。

 

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八景島を埋め尽くす超満員の観衆。

2003年からその後の数年間は、ある世代にとっては忘れ得ない日々だろう。

 

まず、03年8月に『横浜レゲエ祭』が八景島シーパラダイスで初の野外開催。しかも観客動員数は前年を倍以上に上回る1万人!!

 

それまでにも日本で万単位の観衆が集うレゲエのフェスはあった。しかし、それはアーティストも、またバックを務めるバンドも、皆海の向こうから「来てもらって」やったものだ。

しかし、今はちがう。すべてを自分たちの力で創りあげたのだ。

「日本語でレゲエが歌えんのか?」「日本人にレゲエなんかやれんのか?」

そう言われていた時代から始まって、とうとう「日本人による母国語のレゲエ」はここまで辿り着いたのだった!!

 

 

 

 

この年、リリースされた作品で何と言っても忘れてはならないのは『ESCAPE Riddim』だ。

東京の女性サウンドクルー・HEMO&MOOFIREの初プロデュース作であり、印象的なRiddim Trkを手がけているのはモンスター・リディム『Diwali』の制作者でもあるLENKY(※LENKYは日本人ものとしては他に『PUSHIM / I WANNA KNOW YOU』なども手がけている)。

 

当初は7インチレコードのみのリリースであったが、特に『KEN-U / DOKO』、『MICKY RICH / WINE YEAH』の二曲が人気を集め、当時の「着うた」での根強い人気も手伝って、異例のロングラン・ヒットに。気づけば00年代を代表する日本語レゲエ曲として不動の地位を確立するまでに至る!!

 

今となってはあまり知られてはいないが、『ESCAPE』は日本人・ジャマイカ人アーティスト混合で15曲入りのワンウェイ・アルバムも最初からリリースされており、その中には若き日のVYBZ KARTELがボイスしている曲も存在する(!!)。

 

日本のレゲエ・シーンが急速に肥大していく中で、あくまでStrictryなジャマイカン・マナーに則って作品を制作したこと。そしてその作品を最終的には大ヒットにまで導き、

「レゲエには曲のトラックだけを『Riddim』と呼んで独立したものとして捉え、同じRiddimの上で複数のアーティストが曲をリリースする独自の文化がある」

ということを広く認知させたこと。

この時代にHEMO&MOOFIREが果たした功績は計り知れない。

 

翌2004年には『横浜レゲエ祭』は、クラブで開催していた頃から数えてちょうど10周年を迎え、開催場所も八景島からみなとみらいに移して2万人を集客する。また、西の『HIGHEST MOUNTAIN』は舞洲にて初の野外開催となり(ちなみに舞洲は90年代にJAPAN SPLASHが開催されていた場所でもある)、こちらは1万3千人を集客。東西二大フェスは倍々ゲームでその規模を拡大していった。

 

そしてそれに続けとばかり、各地方では数千人規模のレゲエ・フェスがそこかしこで開催。

 

メディアには「ジャパニーズ・レゲエ=ジャパレゲという言葉が頻繁に躍り、街を歩けばラスタカラーのアイテムを身につけた人もよく目についた。この頃ぼくは19歳。本当に「ブーム」が来たんだなということを実感させられたものだった……。

 

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この、2000年代の日本のレゲエブームを象徴するような存在のひとつが「HOTTIE CAT」である。

奈良県出身の女性レゲエダンサー二人組で、TV番組『少年チャンプルスーパーチャンプル)』に採り上げられたことにより人気が爆発。二人の美しいルックスも手伝って、アイドル的存在としても注目の的に。全国にレゲエダンサー旋風を巻き起こす!!

 

物心ついた頃からiPhoneを持っているような今の若い世代にはちょっと想像がつかないかも知れないが、当時の個人発信のメディアというものは今の時代に比べたら極端に少なく、SNSはやっとmixiが登場した程度(当初はパソコンからしかできなかった)、全国のレゲエ人はガラケーで、「魔法のiらんど」の掲示板で交流しているような時代である。

 

そんな時代に「TVに出演し、しかもそこで話題になる」ということがどれ程の影響力を持っていたかお分かりになるだろうか?

 

HOTTIE CATはサザンオールスターズのツアーダンサーなどにも抜擢され、日本語レゲエ的には「lecca」(※現在は都議会議員となった斎藤れいな)のバックダンサーとしての活動も永年に渡って継続。08年にはギャッツビーのCMに出演しあの木村拓哉との共演も果たす(※CHIEさん産休だったため代打でKIYOさん)。

 

二人は2011年の東日本大震災を機に帰郷。現在はMEGUもCHIEも子どもを授かり、生まれ故郷の奈良で幸せに暮らしている。

 

スーパーチャンプル』でDA PUMPと共演するHOTTIE CAT。

 

 

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湘南乃風』もこの、レゲエブームまっただ中の頃にメジャーデビューを果たしている。初期のCDシングルのジャケをヤンキー漫画の巨匠・高橋ヒロシが手がけていることからも分かるように、当初から「不良」のイメージを強く打ち出したグループであり、この頃、10代を中心に急速に人気を集めていた。

 

その人気っぷりは凄まじいもので、活動はレゲエの枠を超えてポップ・フィールドに進出するまでに及び、2006年にはご存知『純恋歌』がリリース。オリコン2位を記録する大ヒットに!

今でもたまに、TVで芸人がHAN-KUNのものまねをして『純恋歌』を歌うのを見かけることがあるが、改めて「歴史」を作った曲なんだなということを実感させられる。

 


 

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初めて横浜スタジアムで開催された『横浜レゲエ祭

2006年、『レゲエ祭』が初の横浜スタジアムで開催され、3万人を集客。また、西の『HIGHEST MOUNTAIN』は舞洲で2万5千人を集客し、ジャパニーズ・レゲエ・シーンはひとつのピークに達しようとしていた。

 

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この年、「東」でも「西」でもない日本の真ん中、東海エリアをレペゼンするDJ&シンガーのデュオ『MEGARYU(MEGAHORN & RYU-REX)』のアルバム『我流旋風』がオリコン初登場一位を記録する。

MEGARYU』は『レゲエマガジン』の初代編集長、加藤学氏(2011年永眠)がプロデューサーとして制作に携わっていたユニット。90年代の『JAPAN SPLASH』の遺伝子(※)は形を変えて受け継がれていたのだ!!

横浜レゲエ祭』や『HIGHEST MOUNTAIN』の偉業はもちろん忘れてはならないものだが、それとは別路線で、日本でレゲエを広めようとした人たちが居たこともまた、忘れてはならない。

 

(※)『レゲエマガジン』は『ジャパンスプラッシュ』を運営していたタキオンが発刊していた雑誌。『ジャパスプ』の広報誌という役割も担っており、『ジャパスプ』で海外アーティストが来日する際は詳細なバイオとともに『レゲエマガジン』にインタビューが載るのが通例であった。

 

 

06年に生まれた名曲と言えば『CHEHON / みどり』だ。使用されているRiddimは当時流行った『GUILTY』をジャマイカから公式ライセンスしてきたもので、『SOJAH / PON DI CORNER』などと同オケ。

リリックに“仕掛け”が施してあり、

「ただのラブソングと思いきや実は……」

という内容が話題を呼んでBUSS。リリース当時弱冠22歳だったCHEHONは、この曲を切っ掛けに一躍脚光を浴びるようになる。

 

『みどり』の人気を後押ししたのは、各地のサウンドマンが録って現場でかけた“DUB”だった。

 

この頃、レコーデイング環境はデジタルに移行しており、Pro Toolsを導入し、自宅スタジオを構えるサウンドマンが全国で急増。まだCDも売れている時代だったのでALL DUB MIXをリリースするサウンドもとても多かった。

すると当然ながらネームバリューのあるアーティストに依頼しているだけでは“弾”が足りなくなり、若手アーティストにも目を向けざるを得なくなる。

 

そうした流れの中で生まれたHITが『みどり』であった。だから本当に“現場発”のHIT TUNEである。

 

ちなみに筆者が2016年にCHEHONにインタビューした際は

“今までで『みどり』のDUBは余裕で200本以上は録ってますね”

との発言を残している。

 

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この頃、シーンに登場したアーティストの中では何と言っても『笑連隊』を忘れてはならない。

それ以前にもランキンさんやH-MANという存在はあったものの、当時まだ20代前半だった若者たちが真っ向から笑いに取り組むという姿勢は当時としてはかなり異質なものであった。

しかし、結果として彼らが支持された背景には

「日本人のレゲエはお笑いだ!とか言う奴らもいるけど、じゃあお笑いやっちゃいけないのかよ!!」

という皆の内なる声を代弁したことにあると思う。

 

そうなのだ。確かに何でもかんでもお笑い扱いされるのは嫌だが、だからと言って「笑い」の要素が完全に封印されるのも何とも寂しい。“レゲエ”はそんな懐の狭い音楽ではないのだから……。

 

当初こそ異端扱いされた笑連隊であったが、1stミニアルバム『人間合格』をリリースした頃から全国で引っぱりだこになり、2008年にはHIGHEST MOUNTAIN出演も果たしている。

 

 

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また、『ARARE』の存在も重要だ。

横浜レゲエ祭への登竜門企画『Road to レゲエ祭』で優勝したことから注目を集め、全国区のアーティストに。

 

シーンに登場した頃はまだ20歳という若さであったが、そんな彼が80sのオールドフローでトゥースティングする様は何とも新鮮であり、若いMIC持ちたちのオールドスクール再評価の流れを作った。

ラブダブ巧者としても知られ“現場”での強さには定評があるアーティストで、自身が優勝した06年度の『Road to レゲエ祭』におけるDANGER SHUへのアンサーは伝説として語り継がれている。

 

笑連隊もそうだが、どんなに流行っても出自である「ストリートミュージックとしてのレゲエ」は求められるわけであって、それがこのようなアーティストを押し上げたとも言える。

膨張していたブーム期のレゲエシーンであったが、こんな形で文化としてのアイデンティティーは保たれていたのである。

 

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RUB-A-DUB MARKET

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BUNBUN the MC

サブカルチャー的な文脈で「日本語のレゲエ」を表現しようという動きもあった。

“異型ラガマフィン”を唱え、東京のサウンド『JAM MASTER』と『X-STACY』の元メンバーで結成された『RUB-A-DUB MARKET』、元LABRISHの店長でもあった大阪の『BUNBUN the MC』などはその代表格と言えるだろう。

 

その活動は、ブームに伴い客層も低年齢化していく中で「大人も聴けるレゲエ」を提示しよう!ということにも繋がっており、彼らもまた、この文化のピュアネスを保つために一役買っていた!!

 

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PART2STYLE SOUND

ちなみに『RUB-A-DUB MARKET』のメンバーであったMaLは同クルー散開後、DJユニット『PART 2 STYLE』として活躍し、ベースミュージックの分野で世界的な存在となっている。

根っからのレゲエ・リスナーには馴染みが薄いかも知れないが、「ベースミュージック」はレゲエから派生した姉妹ジャンルであり、そもそも“PART 2 STYLE”というワード自体が、80年代の、7インチレコードをひっくり返して行う伝統的なラバダブ・フリースタイルを指して言う言葉である。

 

 

 

 

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2007年には活動初期から日本語レゲエを強くサポートしていた西の雄・RED SPIDERのALL JAPANSE DUB MIX『爆走エンジェル』が、二枚組というフル・ボリュームでメジャー配給される。

Pro Toolsが普及する過程で日本人もののmixも全国のサウンドがリリースしていたが、その中において“決定打”とも呼べるものだった。

 

今の20代の人と喋ると“中学生の頃ジャパレゲ好きで『爆走エンジェル』よく聴いてました!!”という話をされることもとても多く、しみじみ隔世の感を禁じ得ない。

 

 

……しかし、ちょうどこの頃から「レゲエ、そろそろやばいんじゃない!?」という声が内外で囁かれるようになる。

田舎の末端のレゲエDeeJayだったぼくですらそんな空気をひしひしと感じていたぐらいなのだから、上の人たちはもっとだったろう。

『レゲエ祭』や『HIGHEST MOUNTAIN』などの大型フェスは変わらず数万人単位の集客をキープしていたが、クラブレベルでは2008年辺りから本格的に瓦解が始まり、00年代最後の2009年にもなると目に見えて集客に影響が出るようになった。完全に「ブーム」の反動が出てしまっていたのである。

ぼくも2008年頃にはMICを置いてしまい、以降DeeJayとしてのパフォーマンスは行っていない。

 

祭りのあとのさみしさが、嫌でもやってくるのなら……

 

子どもの頃、親父がカーステで流していたフォークソングが頭をよぎった。

何となくレゲエを聴く気分にはなれなかった。

 

10年代

2010年代のレゲエシーンはまさに「どん底」の中から始まった。

ブームの直後で反動がモロに出てしまったことが一番大きいが、時代の流れでCDの売り上げが立たなくなってしまっていたこと。また、風営法の絡みで多数のクラブが摘発されるなど、根本からシーンが揺さぶられるような問題が起こっていた。

 

そして迎えた2011年、東日本大震災

 

この未曾有の大災害を前に中止や延期となる音楽イベントも頻出し、もともと、暗かった業界内の雰囲気は輪をかけて暗くなっていった。

しかしそんな中でもラガマフィンは強かった。

 

 

この頃、『EVERYBODY GO SO』『414141』という、それぞれ関西、東海を拠点に活動する実力派サウンドマンがMICを握った曲が地下シーンで急速に人気を集め出し、正式リリースもされていないまま、その勢いは全国に波及していった。

 

歌っているサウンドマン達が皆、“JUGGLIN”の現場で名を馳せた者たちだからなのであるが、サウンドシステムの爆音で流れる日本語曲で、皆が同じ振り付けで踊り出す様は何とも圧巻で、「新時代」の到来を強く感じさせた。

もともと、「洋楽志向」が強かったレゲエダンサーのシーンであるが、あの頃を境に日本人の楽曲でも踊る流れが出来たように思う。

 

そして、サウンドマンなど「非MIC持ち」が歌う……という文化は、そもそも『TONY MATTERHORN / DUTTY WINE』のHITで00年代中盤にはあったものだが、この10年代初頭のムーヴメントを目の当たりにした時は

「アイデアと行動力さえあればレゲエは誰にだって面白いことがやれるんだぜ!!」

という、この文化の「根本」を改めて教えられた思いだった(※『414141』で歌っているカリスマゾンビなど、サウンドマンでもなくずっとイベントプロモーターをやっていた人物である)。

 

あの時ほどこのカルチャーが持つ強靭な生命力を感じたことはない。

 

『414141』でMr. SEARCHが叫ぶ「誰も死にません!!」は、「酔いつぶれません!!」という意味で言っているのだが、自分には

「レゲエも、それに関わる俺たちもな、誰一人として死んじゃいねぇんだよ!!」

と言ってるように聞こえて仕方がなかった。

 

そして“現場発”のHIT TUNEと言えば、この曲を忘れる訳には行かないだろう。

 

 

ご存知、『もぐらの唄』である。

2011年にリリースされた同曲は、大々的なプロモーションもなされていないままSNSを介して全国に広まっていき、最終的には海の向こうで偶然曲を耳にしたメジャーリーガー・田沢純一投手が同曲に惹かれ自身の登場曲に使用するという奇跡のような出来事をも巻き起す。当時ヤフーニュースにも採り上げられたので覚えている方も多いのではないだろうか。

 

参考リンク:世界が武者震い!RED SOXを世界一に導いた田沢投手の登場曲「もぐらの唄」とは。 | エンタメウス

 


 

“この先も色々あんだろう

それならその度にがんばろう”

 

シンプルで力強いメッセージは“ブーム”に翻弄された全国のラガマフィンの心を熱く奮い立たせた。そうなのだ。山あり谷ありは当たり前。その度、その度、がんばるしかない。“泣いても笑っても人生は一度きり”なのだから……。

 

『もぐらの唄』は紛れもなく日本語レゲエを代表する楽曲のひとつとして完全に認知され、2019年の現在、YouTubeの再生回数も1000万回を突破している。

 

2010年代は「日本一のレゲエ激選区」大阪の底力を感じた10年でもあった。

日本人ものの一連としては泉州の老舗サウンド・BURN DOWNのレーベルSOUTH YAAD MUZIKからリリースされた『STEP UP Riddim』がシーンを席巻! 中でも『HISATOMI / MY DREAM』が同リディムを象徴するようなHITチューンとなった。

 

この頃の大阪シーンのキーマンと言えば“教授”である。“某・超有名国立大学を卒業!”という異色の経歴の持ち主で、JUDGEMENTのTUCKERが興したレゲエレコード店ROCKERS ISLAND』に、ストアスタッフとして入社後、メキメキと頭角を現しROCKERSの中枢を担う存在に。

 

00年代レゲエブーム時のROCKERSは東京・大阪・札幌に三店舗を構え、世界有数のレゲエレコードの在庫量をキープ。06年には英BBCで、「1年間に80万枚のレコードをジャマイカからロッカーズ・アイランドへ向けて輸出。日本には世界最大規模のレゲエ専門レコードショップがある」と、ニュースになるほどであった。

そこで得た豊富な資金を用い、自社レーベルや情報サイト『ROCKERS channel』を運営。単なるレコ屋を超え“日本の一大・レゲエカンパニー!”として不動の地位を築いていた。

 

ROCKERSで実績を積み上げる中で、教授は同社の音楽レーベル事業にも携わり始め、関西圏を中心とした日本人アーティストのプロデュースを開始。自身がトラックメイキングを手がける他にも、時には作詞作曲の共作者として楽曲制作に参加し、シーンの底上げに一役買っている。

 

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そんな彼がフックアップしたアーティストが『寿君』である。

奈良県出身のレゲエDJで下積み時代は『MOUNTAIN KING』という芸名で活動していたが、RED SPIDERのJUNIORに『寿君』と命名されて以来、急速にアーティスト人生が変わり始め(※日本レゲエ界にはジュニアさんが芸名を付けると売れる、というジンクスが存在する)、10年代のはじめにはシーンの最前線に躍り出る。代表曲『オレトオレバ』『オレガヤレバ』などでは教授が作詞作曲を共作。

 

2018年にはTUBEの同名曲をサンプリングするというド直球のPARTY TUNE『あー夏休み』を引っ下げてメジャーデビュー。

ねたがJ-POPの有名曲、ということで賛否両論を起こしつつもレゲエ代表として邦楽シーンでサヴァイブを続けている。

 

 

 

 

「西」が熱ければ、もちろん「東」も負けてはいない。

2013年には東京のSPICY CHOCOLATEがプロデュースした『ずっと』がNTTドコモのCMソングに起用され、HIT。アルバムもオリコン初登場3位に輝いている。

 

POPなイメージを持たれがちなSPICYであるが、元々は90年代から活動する老舗レゲエサウンドで(※現在はKATSUYUKIのソロ・ユニットとして活動)、全国規模のダンサーコンテストやDJコンテストなどの主催などを通じて、影となり日向となりシーンを支え続けてきた人物である。

2018年には自身が選抜したレゲエDJを率いて人気TV番組『フリースタイルダンジョン』にも登場。同番組初の『レゲエ編』を大成功に導いている。

 

結成から既に25年に及ぶ月日が経とうとしているが、日本におけるSPICY CHOLATEのレゲエ普及活動は、これからも「ずっと」続いていくのだろう。

 

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また、『Magnum Records』の存在もことのほか重要だ。

現場からの比類なきPROPSを受け、Rudeboy Face、Akane、Rueedという“黄金のトライアングル”は、今も止まらず現在進行形で日本語レゲエをアップデートし続けている!!

 

 

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そして、J-REXXX。

都内で開催されていたDJコンテスト『Ragga Cup』に優勝したことをキッカケにCDデビュー……というバックグラウンドからも分かるように、活動初期から“現場”での強さには定評があるアーティストで、コンテスト荒しとして知られていた。

 

だが、音源のBIG HITにはなかなか恵まれず、長い下積み生活を送ることとなる。

 

そんな彼に転機が訪れたのが新進気鋭のトラックメーカー774とタッグを組んでDROPされた『M.U.S.I.C』のBUSSで、ここから完全に才能が開花し、10年代の日本における最重要レゲエDeeJayの一人として数えられることとなる。

 

音楽性そのものは正当なブラックミュージックの流れを汲むものであるが、オーセンティックなPUNKファッションに身を包み、“REGGAE”に捉われずジャンルを横断してどんな現場でも盛り上がる様は正に唯一無二!!

日本でもっとも“鬼ボス”という言葉が似合う男である。

 

 

 

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2010年代はベテラン勢の海外での活躍にも心躍らされた。

名古屋をレペゼンし、90年代より活動を続ける『ACKEE&SALTFISH』は、2014年に自らの“原点”でもあるジャマイカに渡り、久方振りに現地で本格的な音楽活動を開始。

永年のキャリアで培った巧みなパトワを武器に大小問わず現場をBUSSし続け、歴史と伝統ある『REBEL SALUTE』や年末恒例の『Sting』にも出演を果たす。

 

ちょうど14年は日本とジャマイカの国交50周年の年に当たり、YouTubeの向こうでパトワ語で黒人たちを盛り上げるACKEE&SALTFISHは、まさに“音楽の親善大使”そのものであった。

 

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そして、10年代に“ジャマイカをBUSSした日本人”と言えばもう一人、RANKIN PUMPKINである。

彼女も永年ジャマイカで音楽活動を続けている日本人アーティストであるが、2017年にオーディションを通過し、現地の人気番組『Magnum Kings & Queens of Dancehall』に、唯一の日本人DJとして出演。約4ヶ月に及ぶ同番組の勝ち抜き歌合戦企画においてファイナルまで進出し、ジャマイカ全土にその名を轟かすこととなった。

 

RANKIN PUMPKINは、冒頭に記した80年代レゲエマガジンの『日本レゲエDJ名鑑』にも載っているベテランアーティストで、2017年は彼女が伝説のコンピ『ニポニーズラガマフィン』でCDデビューして、ちょうど「25年目」に当たる年であった。

 

その永年のキャリアの中で、日本の数万人を集客するような大型フェスに出演した訳ではないが、まさかこんな形で世界で有名になるとは誰が予想し得ただろうか!?

レゲエの言葉を使うなら、まさに“GUIDANCE”である!!

 

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また、名古屋をレペゼンするレゲエシンガー『MACHACO』は、先述の二組とは違ったベクトルで、世界に向けて日本語レゲエを発信したアーティストである。

 

彼女も90年代初頭より活動を続ける大ベテランで、2008年アルバム『Precious』でメジャーデビュー。同作は9割が彼女が単身ジャマイカに渡り、現地の一流ミュージシャンとセッションして制作された楽曲で占められているが、このことが切っ掛けで業界内で存在がちょっとした噂となり、10年代にはUKの『Necessary Mayhem』や『Tippa Irie』、ニューヨークの『Manila Jeepney』など、多数の海外レーベルから作品をリリース。

 

“日本語で歌われたLOVERS ROCKを世界に届けられるワン&オンリーのアーティスト”として、日本語レゲエの可能性を広げ続けている!

 

 

 

こうして振り返ってみると、2010年代は「日本語レゲエ」というカルチャーが、かつてないほどの広がりを見せた10年間であったことが分かる。

そして、中にはこんな“オリジナル”な存在感を発揮しているアーティストも。

 

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北陸は福井県のベテランレゲエシンガー・SING J ROYは、00年代後半SUNSETレーベルに籍を置いていた頃の活動でご存知の方も多いと思うが、その頃リリックすべてを福井弁で書き下ろした『ほやほや』『だんねーざ』(※『ほやほや』は福井弁で『そうだ、そうだ』と相槌を打つ時に使われる言葉。『だんねーざ』は問題ないという意味)という楽曲が福井県内でローカルヒットを飛ばし、県内の小・中学校に音楽の特別講師として招かれるようになる。

 

その活動は今も継続中で全国規模に拡大しており、訪れた学校は県内外合わせて既に60校以上を突破!!

 

日本屈指のROOTS REGGAE BAND『ZION HIGH PLAYERS』と10年以上寝食を共にし、“RASTA”の思想を信条とする氏であるが、現在の活動は

「自分たちの『ROOTS & CULTURE』をどうやって後世に伝えていくか?」

というラスタマンとしての命題に、彼が日本人として、福井人として、答えを出した結果なのかも知れない。

 

 

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また、ダンスホールのシーンとはあまりLINKがないのでご存知ない方も多いと思うが、東北は秋田発のレゲエ・バンド『英心 & The Meditationalies』もユニークな存在感を発揮している。

 

フロントマンの男性ボーカルが現職のお坊さんということで“現役僧侶が在籍する仏教レゲエ・バンド!”という触れ込みで知られているのだが、単なる色物(スイマセン)かと思いきや、作風は正統派そのもの! 『ROCKERS』を思わせるオーセンティックなレゲエのリディムに、見事に日本語詞を乗せている。

 

評論家筋からの評価も高く、老舗音楽誌『ミュージックマガジン』では1stアルバムが、2015年度の“国内レゲエ部門・年間ベストアルバム”の、栄えある第一位に選出。

また、2018年にレゲエが「ユネスコ無形文化遺産」に登録された際は、“日本にもこんな面白いレゲエアーティストがいる!”と、朝日新聞の『天声人語』にもその存在が紹介された。

 

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2000年代、「クイーン・オブ・ジャパニーズ・レゲエ」と呼ばれたPUSHIMは、ブーム期が過ぎさって尚自身の音楽性を強固なものとし、近年のMUROプロデュースによる一連の作品や、「レゲエ」畑以外の数々の有名フェス出演などを通して、もはや「ジャパレゲ」の枠を越えた存在として完全に認知される。

 

奇しくも今年、2019年はPUSHIMの“デビュー20周年”に当たる年でもある。

 

古い歌を持ち出して恐縮だが、彼女は“今ここに立って何を思うんだろう?”。

その答えは、彼女が“歌”で教えてくれるだろう。

 

どんなに大きな存在になったとしても「TOKIWAの歌姫」「クイーン・オブ・ジャパニーズ・レゲエ」と呼ばれていた頃から何も変わらぬあの声で。

 

 


 

89年、平成元年にRANKIN TAXIが処女作『火事だぁ』をリリースして今年で30年。

その間に二度のブームが起こりアップダウンもあったが、それも乗り越えて「日本人による母国語のレゲエ・ミュージック」は独自の進化・発展を遂げてきた。

00年代ジャパレゲブームの“象徴”でもあった、東の『横浜レゲエ祭』、西の『HIGHEST MOUNTAIN』の二大フェスは、時の流れの中で一時は休止した年もあったものの、現在も継続中で、このカルチャーに火を灯し続けている。

そして、今や“日本語のレゲエ”は、海を越え世界的な広がりすら見せようとしている。

地球の裏側からやってきたこの文化は「30年」という時を経て、完全にこの国に「定着」したと言えるのではないだろうか。

 

30年に及ぶ「平成」という時代を、日本語のレゲエは赤黄緑で鮮やかに彩ってきた。

 

この先この文化はどこに向かい、どう変わっていくのだろう?

まだまだ目が離せないことは確実だし、ぼくもまだまだ見守っていこうと思う。

 

この文化を愛するすべての人たちに敬意と愛を!

 

あとがきにかえて 〜青春にケジメをつけるために〜

……ここまで書いておいてなんですが、ここで綴られている日本語レゲエの歴史は「不完全」なものです。

本当は「30年」なんで、それにちなんで元原稿は3万字ほど書きまして。それでも足りないぐらいだったのですが、もうネットの一記事に収めるには余りにも長すぎるということで(汗)、編集サイドとも協議の結果、2万字ちょっとまで減らしました。

本当はまだまだまだまだ……書きたいことが山ほどあるのですが、ひとまず今回はこの辺で置いておきます。

というのも、今回このテーマで書くのが決まった時「日本 レゲエ 歴史」とかで検索してみたのですが、全然、情報が出てこなくてびっくりしました。内容うんぬんは置いとくとしても「REGGAE」のスペルが思い切り間違ってるジャパレゲのまとめ記事がけっこう上に出てきたりして……ちょっとこれは、何とかせにゃならんなと。

とりあえずネット上にある程度のガイドラインを作る必要があるんだなと、強く思った次第です。

 

なので自分の書いた記事を「補完」する意味でも、これを読んだ皆さんがSNSなどでやいのやいの言ってくれたらこれ幸い! そーいうことを通じてこの音楽に対する理解が深まってくれたら自分も書いた甲斐があります。

「日本語でレゲエが歌えんのかよ?」
「日本人にレゲエがやれんのかよ?」

そんな風に言われた時代がありました。
おどけた歌詞を歌うだけで色物扱いされるような時代がありました。

それを乗り越えて「日本語のレゲエ」をひとつのアートにまで高めたのはひとえに多くの先輩方の努力のたまものです。素晴らしい音楽だと思ってます。

 

“あー、レゲエ好きなんですか? レゲエってあれでしょ、めっちゃ親に感謝しまくる……”

 

初対面の人に「日本人のレゲエ聴いてます」とか言うと、未だにそんなこと言われることもあってウンザリします。けども、“この先も色々あんだろう それならその度に…”なんで、がんばって伝え続けようと思います。日本語のレゲエが更なる発展を遂げることを心から願って!

 

そして最後になりましたが、自分も元々はレゲエDeeJayとしてMICを握っていた人間でした。

 

16歳の時、福井の田舎でSING J ROYと出会って“君もレゲエ好きなの? おれ達のやってるイベントに遊びに来ねや! 歌ってみねや!”と言われたこと。行ったらゲストで来ていたLADY Qに“ソロバンタン”という芸名をつけられたこと。

一生忘れない、かけがえのない思い出です。

 

あれから20年近い月日が流れて、もう歌うこともなくなっちゃったけど、未だに“ソロバン”のままでレゲエ関係の原稿を書いています。

そんな自分にとって、「日本語レゲエ」の歩みを振り返る記事を書くというのは、何とも“特別”なことでした。

 

「平成」も終わるこの時に、やっと自らの青春にケジメをつけれた気がします。

ありがとうございました。

 

ソロバンタン20周年記念インタビュー

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こんにちは! ライターのソロバンタンです。

私事で恐縮ですが、自分は今年2021年でレゲエ人として20年の節目を迎えます。

思えば遠くへ来たもんだなという心持ちでいまして……友人でもあるセレクター・KITAMANJAROのとっつあんをインタビュアーに迎えて、地元でもある東大阪のレゲエスポット『WHATEVER』で記念インタビューを行ってみました。

 

まぁ単なるヲタクの戯言ですが(笑)、20年ともなるとそれなりに語ることもあるので是非暇で暇でしょうがない時にでも読んでいただけたら幸いです♪

 

 


 

押しちゃうよーん、(ボイスレコーダーのRECボタン)押しちゃうよ〜ん♪さぁ〜何から話そうかねー。やっぱ赤裸々がテーマだからおれの初体験の話とかから行っとく? あれはね……

 

●リアルにどうでもええわ!(笑) 早よ自己紹介せぇよ!

えー、ライターでデザイナーとかもやってるSOLO BANTON(ソロバンタン)です(笑)。日本レゲエ界の片隅にひっそりと生息しているぼくですが、今年で36歳。16歳の時にレゲエDJとしてこの世界に足を踏み入れましたが、今年でめでたくレゲエ人生が20年目に突入しました!

 

●16歳から20年っていうのも凄いなぁ。歌い始めたのにはどんなきっかけがあったん?

 

んーとね、最初はラッパーになりたくて。おれがガキの頃、地元・福井には『SPORTY 5』っていうそれはそれは格好良いHIP HOPユニットが居たのね。そんでそこにはおれの師匠のSING J ROYも居て。ある日さぁー、地元のCDショップに行ったらそこでしんじろうさん(SING J ROY)がバイトしてて、おれは“あー、スポーティーの人やー!”と思って話しかけたのよ。ほったら“こーいうのに興味あるんやったら今度おれらがやってるイベントに遊びに来ねや。歌ってみねや!”って言われて。それが全ての始まりやね。

えっと〜、北さん『LADY Q』って分かる?

 

●昔の『横浜レゲエ祭』のトップバッターで出てきてバシバシDJする人やな。

 

そうその人。当時は『クレヨンしんちゃん』の曲とかも歌っててな。

秋に聴きたいREGGAE(PLAYLIST by BREAK JAM)

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いつの間にかすっかり涼しくなり、やってきた秋。

そんな今の季節に似合うGOOD MUZIKを北大阪の実力派SOUND『BREAK JAM』がSELECT!!!

 

Prince Buster - Enjoy Yourself

秋は紅葉が綺麗やったり、ご飯が美味しかったり、楽しみが沢山ある割に一瞬で過ぎ去ってしまいますよね。難しいことは置いといて、この曲のようにとにかく楽しんでいきましょう!

[Kazzya]

 

Buju Banton - Hills and Valley

ラスタマンの教え。人生豊かに生きるには山を越え谷あり。秋に集中力を高め人生を豊かにしていきたいですね。

[Ogy]

 

Beres Hammond - Tempted to Touch

哀愁漂うBeresの恋愛チューン!秋のしんみりした時にぴったりな曲!切なくもポジティブな曲が最高っす!

[Happy]

 

Terry Linen - That's The Way It Is

言わずと知れたBig Tune!!!
クリスマス前のこの時期にピッタリでは無いでしょうか?
学生時代にお付き合いしてた彼女が大好きな一曲でしたw

[Toyo]

 

Sizzla - Just One of Those Days

2003年9月初めてジャマイカに行った時のGhettoのダンスでSizzlaを生で見た時の衝撃が今でも脳裏に焼き付いてます。Da Real Tingは全曲良いですが。

[Ogy]

 

三木道三 - 肌の色

2008年のこの時期に丁度ジャマイカにいたのですが、一目惚れするくらい綺麗な女性に出会いました。恋は全く実りませんでしたが、この曲を聞くとその時の気持ちを思い出します!

[Toyo]

 

I Wayne - Can’t Satisfy Her

ラジオでもガンガンかかっててマイアミに住んでいたころ1番聞いた曲。当時のジャマイカの社会問題を歌詞にしたカルチャーブームの代表作!

[Ogy]

 

Bost - Maramax

秋になると哀愁あるカルチャーな曲が聴きたくなりますよね。この曲は2009年リリースのSugar Riddimにフランスのプロデューサー兼サックスプレイヤーのBostが泣きのメロディーを奏でていて最高です!
RiddimのPeetah MorganやMillion Stylesもお勧めですよ。
ちなみに毎朝できるだけ爽やかに起きようと、僕の携帯のアラームはこの曲です。

[Kazzya]

 

Beres Hammond - Doctors Order

芸術の秋という諺通りBeresの声は芸術である。

[Ogy]

 

Merciless - Mama Cooking

まさに食欲の秋!
Bob MarleyのRedemption Songのリメイクでナイヤビンギ調の心地よいリズムに乗ったMerciless節が炸裂のママソング。

[Kazzya]

 

Dexta Daps - No Undewear

秋といえば、食欲の秋、芸術の秋、読書の秋、スポーツの秋、行楽の秋……秋と結びつく言葉はたくさありますが、女性の中には性欲の秋という方もいるのではないでしょうか?

 [Ogy]

 

Alicia Keys feat. Protoje & Chronixx - Underdog (Remix)

秋のちょっと肌寒い朝にバイブスをあげたい!そんな時に最近この曲聞いてます!仕事前とか、気合入れたい時とかにもってこいな曲!

[Happy]

 

Tarrus Riley & Shenseea - Lighter

今秋のブランニューやけど今自分は中国の広州でこの曲を聞いて、2020年を生きてる証。心に残る予定の曲。

[Ogy]

 

Ram Head - One Big Family

2020年色んな事が起き、色んな人達と会う機会も少なくなりました。それでも仲間と音楽のお陰で今でも元気にやれてます。そんな気持ちを込めての一曲!

[Toyo]

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【BREAK JAM】

2007年7月、北大阪で結成。メンバーはKazzya、Happyに加えて、2016年にOgy (ex. THUNDER HEAD)、2019年にToyo (ex. TOP RUNNER)が加入し、現在は4人で活動中。CREATIVEなDUB PLATEを武器に、型にはまらないSTYLEで"本物のENTERTAINMENT"を目指し活動している。2009年には、京都Club BOWLにて、当時関西の次世代SOUNDのNo.1を決めるSOUND CLASH『狼煙』で優勝。独自の感性と音楽への愛情に重きを置き、質の高いPLAYでAUDIENCEに衝撃を与えるべく日々邁進しているSOUNDである。BREAK JAM a.k.a. ONE SOUND IMPACT!!

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“IRIE CRUISE vol.3”
2020.10.25(日) 17:00〜22:00
ADM : FREE
@TUGBOAT TAISHO (タグボート大正)
(大阪府大阪市大正区三軒家西1丁目1番14号)

 

Music by BREAK JAM & friends

 

2020年1月に大正区の尻無川の水辺空間にオープンした複合施設「タグボート大正」にて、8月よりスタートして今回3回目を迎える「IRIE CRUISE」は、半野外の開放的な環境でBREAK JAMと愉快な仲間たちがNO MCのBGMスタイルでREGGAEを中心にGOOD MUSICをお届けします。
密を回避しつつ音楽を聴きながらお酒や食事を楽しんで頂けます。

 

 

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【何問わかるかな?】サウンドクラッシュクイズ

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サウンドクラッシュ」と言えば、ぼくたちが愛してやまないこのレゲエミュージックが生んだ「音の格闘技」。

世界王者MIGHTY CROWNの存在などもあり、ここ日本では特に良く知られているこの音楽文化ですが、今年2020年はいよいよ日本初、業界初のオンライン・サウンド・クラッシュ“Do the レゲエ オンラインクラッシュ”も開催が決定し、ますます目が離せなくなっております(→ Do the レゲエ YouTubeチャンネル)。

 

しかーし!

 

独特なルールや専門用語などの存在もあり、イマイチとっつきにくいのもこのカルチャー“ならでは”のもの。

そこでオンラインクラッシュに先がけ、レゲエZIONではそんなクラッシュのアレコレを楽しく学べるようにクイズ形式で記事を作成してみました。

初心者なら知っておきたい基本ルールや用語、更には年季の入ったファンでも思わず頭にハテナマークが浮かんでしまうようなコアなねたまで、全20問。全問正解したら今まで以上にサウンド・クラッシュを楽しめること間違いナシ!!です。

 

さくっと出来ますので是非予習がてら昼休みなどにやってみてくださいね♪

 

遊び方:三択で全20問100点満点です。すべて選択しおわったら「送信」ボタンを押してください。点数が表示されます!

 

 

 

 

 

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• 11/17(火)1戦目スタート
• 各サウンドがトーナメント制で戦う
• ルールは上記画像参照
• 優勝者には賞金+トロフィー+スポンサーからの豪華賞品
• 勝敗はDo the レゲエジャッジ3人(1ジャッジ1ポイント)と、視聴者投票(2ポイント)
• 投票は動画公開から48時間以内(Do the レゲエインスタグラムにて)
• 本戦を観るにはDo the レゲエコミュニティへの登録が必要
• もしくはコミュニティページのpay activity(1戦500円)でも視聴可能

more info:@dothereggaejapan

 

 

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【SOLO BANTON】

ライター / デザイナー。全国各地のフライヤーやCDジャケットをPOPに美しく彩る『ソロバングラフィック』代表。また音楽ライターとしても活躍し、特に日本のレゲエシーンにおけるトレンドを生み出す重要人物として広く知られている。

Instagram@solobanton.desu

 

クイズ

 

★クイズタイトルを書く★


遊び方

 
  • 全部で 問あります。
  • 解答はプルダウンメニューから選択してください。
  • すべて、解答したら、実行ボタンを押してください。結果がダイアログ画面に出ます。
  • 戻るボタンを押すと、一つ前の画面に戻ります。
  • 答をどうしても知りたい方は、「教えて」ボタンを押すと、答がダイアログ画面に出ます。
  •  


     

    問題1:東京タワーの材料は何を使ったか?

    問題2:最初に宇宙へ飛んだ飛行士が地球を見てなんて言った

    問題3:ではその言葉を言った最初の宇宙飛行士の名前は

    問題4:2004年暮に発売された「ホワイトロード」を歌っているグループは

    問題5:そのグループのボーカルの名前は

    問題6:英語でHellowと挨拶する方います。この言葉を考えた人は誰?

    問題7:日本一高い山は?

    問題8:MISIAのデビュー曲は

    問題9:JavaScriptは始め何と呼ばれていた?

    問題10:クレヨンしんちゃんの正確な名前は


    【ソロバンより】個人仕事の文字数知りたくて書いてるだけです。気にしないでください。

     HF Internationalには都会が似合う。ぎょうにんべんの“街”の音楽を作り続けてきたユニット、それが彼らである。

     

     HF International(アッシュエフ・インターナショナル)は、DJ / ビートメイカーの平岩克規と、ドラムンベースやハウスを制作してきたマルチプレイヤー福田征希によるメロウ・ブレイクビーツ・ユニット。ユニット名の“HF”は“HIRAIWA”と“FUKUDA”それぞれの頭文字でもある。ディスクユニオンの傍系レーベルTHINK! より2010年にデビュー 。

     代表曲となった大貫妙子『都会』のラヴァーズ・ロック・カヴァーほか、Dennis Brownの『Love Has Found Its Way』、Hall & Oates『I Can’t Go For That(No Can Do)』のレゲエディスコカヴァーを自身のレーベルからリリース。HMVより『If You Want It feat. TeN』のリリース他、直近では加納エミリ『フライデーナイト -HF International MIX-』、So Nice『光速道路』のリワーク、檸檬FEAT. かせきさいだぁ 『僕はピカソ』、Bagus!『Cheek Time』のリミックスなども手がけている。
    So Nice『光速道路』のリワークはかのMUROInstagramに投稿したところ、グラミー賞に3度ノミネートされたKENNY DOPEも「I need this」とコメントを寄せている。
    2020年2月にリリースのPaul Murphy主宰のレーベルClaremont56のコンピレーション・アルバム『Claremont Editions』に楽曲が収録され、UKデビュー。
    9月9日にはオリジナル曲として林以樂(SkipSkip BenBen)、The LASTTRAKと共同制作
    でバレアリック・ディスコチューン「After Party」をリリース。

     独自の音楽性から国内外のミュージシャンやDJから着実に支持を集めている。

     

     ……と、メールで送られてきたプロフ文をまんまコピペすると何やらもの凄いことになるのだけれど、要は都会に、街に似合う音楽を作り続けてきた人たちである。

     何せ最初のヒットとなった大貫妙子の昔のシティポップのカバーからしてタイトル『都会』なのだから、狙った訳ではないのだろうけどその後の運命も推して知るべしといったところだろう。

     

     ぼくは彼らがくだんの『都会』の後に制作したDennis Brownの『Love Has Found It's Way』のリメイクが大好きで、初めて聴いた時から夢中になった。デニス・ブラウンは“CROWN PRINCE OF REGGAE(レゲエの皇太子)”と称された偉大なるアーティストで、ジャマイカではかのBOB MARLEYと並ぶレジェンド中のレジェンド。そんな彼の代表曲である『Love Has Found It's Way』を、トークボックス奏者sequickがトロトロに甘くカバーした同曲はそれはそれは美しく……新たな時代の息吹を感じるのに十分な衝撃を与えられた。HFの二人は根っからのレゲエ畑のアーティスト、という訳ではないけど、それだけに“レゲエ”の美味しいところが客観的に見えていて、作品の完成度が高いのはそんなところに理由があると思う。

     そしてそれは、彼らが愛する“LOVERS ROCK”にも通じる。

     安価な労働力として60〜70年代にイギリスに大量移民してきたジャマイカ人だが、そんな彼らの息子や娘たち、生まれた時から大英帝国の空気を吸っている世代は、親の世代が聴いていた伝統的なカリビアン・ミュージックではなく、もっと自分たちの肌感覚に寄り添ってくれる音楽を、「等身大のポップス」を求めていた。

     もともとの「レゲエ」が持つメロウネス、ダンスミュージックとしての機能性はそのままに、ロンドンの灰色の空を彩るためにアップデートされた都市の音楽ー、それが“LOVERS ROCK”だ。

     

     ぼくは福井県生まれの地方出身者だが、それだけに都会には憧れがあった。若い頃は東京や大阪、そして彼らが拠点とする名古屋に猛烈に行きたかった。自らを乗せた電車が、または車が街に近づくにつれ、立ち並ぶ高層ビルや色とりどりのネオンが目に飛び込んで来ることに胸が騒いだものだ。それは、実際にそーいう場所に住んでしまうと単なる風景になってしまって何も感じなくなるのだけれど、やはりあの時抱いた感情は、今となっては得難いものだった。

     

     後から読み返すと笑い話になってると思うのだけれど(そうあってほしいのだが)、この作品がリリースされた2021年の世界情勢は未曾有のコロナ禍の中にある。感染拡大を食い止めるため密閉・密集・密接の“3密”を避けることが声高に叫ばれ、他者とのソーシャルディスタンスを保つ為コンビニやスーパーのレジカウンターにはプラスチックの透明な仕切り板が置かれている。『STAY HOME』が提唱され街からは人が消え、クラブやライブハウス関係者は深刻な大打撃を被った。

     ぼくは今大阪に住んでいるが20年4月の緊急事態宣言発令後、ゴールデンウィークに初めて難波に行ったら、連休中だというのに人がまばらにしか歩いておらず生まれて初めて見る光景にショックを受けた……。

     

     そんな中、彼らがこのような“街に行きたくなる”作品を作ってくれたことが単純に嬉しかった。HF Internationalは昨年10周年。コロナの影響でリリースは一年持ち越してしまったけれど、節目の年を飾るに相応しい素晴らしい作品だ。

     10周年、本当におめでとうございます。

     永遠に続けることは不可能だけど、願わくばこれからも末長く活動は継続してほしい。HFの音楽を聴くと、今よりもずっとずっと都会に行きたかった“あの時”の気持ちを思い出させてくれるからー。

     自分の故郷では見たこともなかった、天高くそびえるビル群、光り輝く極彩色のネオン街、信号が変われば洪水のように人が押し寄せてきて、まるでお祭りをやっているみたいだ。そこではとてつもなく“何かが起こりそう”で、夢を見ているみたいだった。

     

     ぼくがHF Internationalの音楽を好きなのは、そんなキラッキラした“夢”をずっと見せてくれるからなんだと思う。まるで、魔法にかけられたみたいに。