【保存版】平成最後の大総括! 日本語レゲエの30年史

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89年 〜始まり〜

日本のレゲエはどこから始まったのだろう?

梅木マリの『マイボーイ・ロリポップ』であろうか? 中川ゆきの『東京スカ娘』?

それとも坂本龍一がプロデュースし、ジャマイカレコーディングも敢行された『トロピカル・ラブ』だろうか??

はたまた、『サンスプラッシュ』出演も果たした若井ぼん師匠の『商売繁盛じゃ笹持ってレゲエ』??

 

……挙げていけば切りがないが、ダンスホールで。そして、“今のシーンにダイレクトに繋がる”という視点で考えるとRANKIN TAXIの処女作『火事だぁ』を“始まり”とすることに異論を挟む余地はないかと思う。

 

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当時のランキンさんは“某ゼネコンを脱サラした異色の社会派ラッパー!”として、既に東京のサブカル界隈では知られた存在。サラリーマン時代の83年に二週間の有給を取って初めて行ったジャマイカダンスホールカルチャーの洗礼を浴び、暗中模索しながらレゲエの道へ。レゲエDeeJayとしては87年、88年、89年と、三年連続でジャマイカの名門フェス『SUNSPLASH』に出演し、自身が率いる日本最古のサウンド・クルー『TAXI Hi-Fi』は、自前のサウンドシステムと共にこの時点で稼働済み……と、まさに「日本」と「ジャマイカ」を繋ぐ“親善大使”であった。

 

 

80年代の伝説の深夜番組『FM-TV』で『AGONY』のリディムで歌うランキンさん。

 

当時の『レゲエマガジン』に掲載された「日本レゲエDJ名鑑」には、そのRANKIN TAXI含むまだ20名にも満たない全国のMIC持ちのバイオが載っているのみ。

文字通り、日本にレゲエの“レ”の字も、またヒップホップの“ヒ”の字もなかった時代に、ALL日本語リリックで、一枚のダンスホールレゲエ・アルバムをリリースしている功績はあまりにも大きい。

 

当コラムでは『火事だぁ』がリリースされた1989年、平成元年を“日本語レゲエ元年”とし、平成が終わる2019年に、30年に及ぶ日本人による母国語のレゲエ・ミュージックの歴史を駆け足で辿っていこうと思う。

饒舌に過ぎるだろうが涼としてもらえれば幸いだ。

 

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89年当時のTAXI Hi-Fiのイベントフライヤー

 

90年代

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1990年『MAXI PRIEST / CLOSE TO YOU』の全米チャート1位獲得から幕を開けた90年代、直後にボブ・マーリー以来となる世界的な第二次レゲエブームが巻き起こり、日本でも『JAPAN SPLASH』などの大型フェスに数万人が集うようになる。

「日本人による日本語のレゲエ」はまだ生まれたばかり。

当時は、「日本語でレゲエが歌えんのか?」「そもそも日本人にレゲエがやれんのかよ?」というような論議もまだ盛んになされてるような時代であり、前述の『JAPAN SPLASH』も出演者の90%以上が外国人レゲエアーティストで占められている。

 

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92年にリリースされた日本初となるワンウェイコンピ(※)『HARD MAN FI DEAD』を聴くとよく分かるのだが、日本語で歌うアーティストも居れば、パトワ(ジャマイカン・イングリッシュ)で歌うアーティストも居て、まさにまっぷたつ。当時のシーンを取り巻く空気感が伝わって来ると思う。

「そーいう時代」だったのだ。

 

※収録されてる楽曲がすべて同じバック・トラックを使用しているレゲエミュージック特有のアルバム形態。ちなみに史上最も売れたワンウェイものは『Diwali』。

 

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90年代初頭を象徴するようなアーティストといえば、まずは何と言っても「NAHKI」であろう。

80年代後半より長期の海外武者修業を経験し、ジャマイカでは年末恒例のBIGフェス『STING』にも出演。もちろん歌うリリックはすべてパトワ! JAPAN SPLASHを運営するタキオンがマネージメントを務めていたこともあり、「日本人としてゆいいつジャパスプに出れる逆輸入アーティスト!」として鳴り物入りで注目を集める(※本当はナーキさん以外にも出演してた日本人はいるのですが、まぁ所属アーティストのナーキさんが一番出演回数多かったので)。

 

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この頃、地下シーンではラッパーもレゲエDeeJayも入り交じってのMCコンテストが盛んに開催され、後年に繋がるFOUNDATION(土壌)が形成される。また、東京のV.I.Pレーベルからは良質な日本人アーティストの7インチレコードがコンスタントにリリースされ、その中からは『TWIGY / 夜行列車』のような、日本語ラップのCLASSICとして語り継がれるような作品も生まれている(※『夜行列車』はV.I.P BANDが制作したレゲエのリディムに乗せた曲。同オケでワンウェイも存在する)。まだまだ全体数が少なかったこの時代、REGGAEもHIP HOPも渾然一体となり、文字通り「共闘」していたのだ。

 

 

94年には『BOOGIE MAN / パチンコマン』がHIT。同曲はオリコンチャート入りも果たし、ブギーマンは『HEY! HEY! HEY!』に出演してダウンタウンとも共演。一躍時代の寵児に(※ちなみに当時ブギーさんは『爆走兄弟レッツ&ゴー!』のEDも歌っております)。

 

しかし、『パチンコマン』は普段の現場さながらのユーモラスなリリックであったが故に、中には「日本人のレゲエってお笑いでしょ?」的な、色物目線で見るリスナーも少なくなかった。奇しくも翌95年にはHIP HOPシーンから『DA.YO.NE.』のHITも生まれ、こちらはオリコン最高7位。同年に紅白出場も果たしていたためバッシングも『パチコンマン』の比ではなく、「日本人が日本語でやるラップやレゲエ=色物」という世間の偏見に、ラガもヘッズも当分苦しめられることになる……。

 

そうこうしているうちに爆発的なレゲエブームは95年辺りでピークを迎え、以後下降線をたどる。雨後のタケノコのように都内にオープンしていたレゲエ系クラブも次々に閉店し、蜘蛛の子を散らすように週末のダンスホールからは人が居なくなっていった。

 

「レゲエバブル」の崩壊である。

 

冒頭に記した『日本レゲエDJ名鑑』にも名を連ねている、日本のダンスホール第一世代のアーティスト、CHAPPIE(現CHAPPA RANKS)は、当時を振り返って後年自身のブログにこんな記述を残している。

 

ブームが去ったあとは、嵐が去ったあとのように悲惨で、人々は手の平を返したように冷たくなっていった。

 

数年前に、有ること無いことを言いながら、ニコニコの笑顔で近づいて来た、あの人達は一体、何だったんだろう?

 

俺は、この時のことを生涯忘れることはないだろう。

 

CHAPPA RANKS BLOG:自分 HISTORY 第29話「ブームの終盤」より抜粋

 

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96年、レゲエ / ヒップホップ系の老舗フリーペーパー『Riddim』誌は“日本の年にしたい!”のスローガンを掲げ、日本人レゲエアーティストの一大特集を敢行。ブーム終焉後の新たなシーン形成のための舵を切る。

あのMIGHTY CROWN主催の『横浜レゲエ祭』も、この頃数百人規模のクラブからスタートしている。

 

この頃、海の向こうジャマイカでは既にレーベル『JAP jam』が活動を開始していた。

筆者は何と言っても同レーベルの代表曲であり、90年代中盤を代表する日本語レゲエ曲である『三木道三 / JAPAN一番』が忘れられない。

 

JAPAN一番 めちゃええ国やん

どの国もうちの国にゃかなわん

JAPAN一番 めちゃええ国やん

俺はこの国が好きでたまらん

 

外国尊敬しすぎたらあかん

押し付けられるな価値観

日本はかっこええやん

ここは俺らの国 JAPAN

 

21世紀の今、改めて聴くと「日本好きすぎやろ!」なリリックに思わず笑ってしまうが(笑)、同時に気持ちも痛いほど分かる。

「JAPAN」と「JAMAICA」。

同じアルファベット2文字から始まる国から輸入した文化を、日本人としてどう咀嚼(そしゃく)していくのか? 日本人としてここ日本で日本語のレゲエをどう根付かせていくのか?

先駆者たちは皆、葛藤していたのだ。

 

そして「ブーム」が過ぎたからと言って演者も手をこまねいていた訳ではなかった。

96年には伝説の『さんピンCAMP』にV.I.P CREWの看板DJ、BOY-KENが参戦。

野音を埋め尽くすヘッズ達の前で、唯一のレゲエアクトとして堂々としたパフォーマンスを見せつける。

 

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日本レゲエの黎明期より活動するアーティスト「BOY-KEN」は、もともとHIP HOPのオールドスクーラーDJ DOC HOLIDAY(現・須永辰緒)の元でラッパーとしてそのキャリアをスタートさせた人物。活動を続ける中で“レゲエ”に開眼するが、HIP HOPシーンとも変わらず深いLINKを持ち続け、両シーンの橋渡し的な存在としても大きな存在となっていた。

 

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98年にはV.I.Pクルーの5周年イベントがクラブチッタで開催され、当時の日本語ラップ、日本語レゲエのオールスターメンバーとでも言うべき面子が集結。

そして翌99年にはあの『DANCEHALL CHECKER』がリリースされ、V.I.Pクルーは日本のレゲエ、ヒップホップ、両方のシーンで永遠に「伝説」として語り継がれることとなる……。

 

90年代後半、レゲエは「冬の時代」に突入していたが、この時期のV.I.Pクルー、そしてBOY-KENのクロスオーバーな活動で「レゲエ」という音楽カルチャーに触れた人はとても多く、筆者もその一人である。

 

youtu.be

 

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そして90年代後半と言えば『TOKIWA』の存在を外す訳にはいかない。

 

同時代の日本語ラップに強い影響を受けた堅牢な押韻主義。また、関西の前世代とは一線を画す「シュッ!」としたたたずまいは、その後の日本語レゲエのスタンダードとなるものだった。

 

NG HEAD、PUSHIMRYO the SKYWALKER、JUMBO MAATCH、TAKAFIN、BOXER KID……

その存在が奇跡的すぎて残念ながら短命に終わったが、トキワの遺志は「謎のミックス集団」として同クルーから派生したMIGHTY JAM ROCKがしっかりと受け継ぎ、毎夏恒例の『HIGHEST MOUNTAIN』は、東の『横浜レゲエ祭』と並び日本を代表するレゲエフェスとして今も悠々とそびえ立っている。

 

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第一回目の『HIGHEST MOUNTAIN』のフライヤー

 

 

 

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90年代後半は、各地で大小さまざまなSOUND CLASHが行われていた時勢でもある。

実質的にMIGHTY CROWNが日本で参戦した“最後”のクラッシュとなった『頂点』などは、YouTubeに上がってる当時の動画をご覧になった方も多いだろう。

 

レゲエには“DUB”という、サウンドがアーティストに依頼して特注の曲を作る文化が存在するが、クラッシュの際は相手サウンドを攻撃する直接的な武器となるため、当日用の“仕込み”を含め、いつにも増してDUB録りが活発化する。この、90年代後半のサウンドクラッシュシーンの活況によって日本のレゲエDeeJayのスキルが飛躍的に向上したことは言うまでもない。

 

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その「恩恵」を最も受けたアーティストの一人が“濱の兄貴”ことNANJA MANである。

関西シーンでは語り継がれる伝説なのだが、「NANJA MANは90年代後半に大阪を訪れた際、DUBで稼ぎまくってその金でバイク買ってそれに乗って横浜まで帰った!!」というものがある。

 

後年、ぼくは本人に直接そのことを尋ねてみたことがある。「あの話はマジなんですか?」と……。NANJA MANはあの笑顔でことも無げに言った。

 

「あー、『乗って帰った』は話がでかなっただけなんやけどな。DUB録りでけっこうなお金をもらったのは本当で、『こんなん普通に持ってたら絶対アホなことに使ってまう!』と思って、それでこっち(神奈川)戻った時にそのお金でバイク買うたんよ」

 

まさに「STREET DREAMS」というか何というか……すげぇ話である!!

 

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そして90年代後半、日本で起こっていたクラッシュ・シーンの盛り上がりは、『JUDGEMENT』と『MIGHTY CROWN』という日本の2サウンドが99年にUK、NYで行われた世界戦でそれぞれ世界タイトル奪取!!という誰もが予想だにしていなかった形で身を結ぶ。

 

まさに世界のレゲエ史が塗り替えられた瞬間であり、JUDGEMENT(TUCKER)とMIGHTY CROWNはその後の日本語レゲエにも計り知れない影響を及ぼしていくこととなるのだった!!!

 

00年代

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『SOUL REBEL 2000』で大トリを務めたMOOMIN(写真右)

迎えた新世紀。西暦2000年という年は日本語レゲエのひとつのターニングポイントであった。

まず、秋に日比谷野外音楽堂で行われた第一回『SOUL REBEL』の成功。

これは(現在はwebに移行した)老舗フリーペーパー『Riddim』の発刊、また旧くはレゲエ映画『ROCKERS』の配給などで永きに渡りシーンをサポートしてきたOVERHEAT社主催のものであったのだが、日本人レゲエアーティストのみで、歴史と伝統ある野音の会場を埋めれた。という事実は一般層にアピールする意味でもとてつもなく大きかった。

そして時間軸は前後するが、この年の夏にはMIGHTY CROWN主催の『横浜レゲエ祭』が『サウンド編』『アーティスト編』と2 DAYSに渡って開催され、その時の模様は後に一本のVHSビデオにまとめられ、リリースされる。

まだYouTubeはおろかインターネットすら普及していなかったこの時代、日本人レゲエアーティストの動く姿を観ようと思ったら「現場」に行く以外はたまにスペシャで流れる特番を録画するぐらいしかなく、この映像ソフトが果たした意義は大きい。自分も含め、10代の頃あのビデオを食い入るように見ていた三十路レゲエファンは数知れないだろう。

 

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こうした先人たちの努力の結果、この2000年という年を境に「何か日本人のレゲエがやばいんじゃねぇか!?」という気運が徐々に高まっていく。

 

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そして『SOUL REBEL』 『横浜レゲエ祭』、前述の二つのフェスで共にバッキング・バンドを務めたのが『HOME GROWN BAND』である。

この時期彼らの存在が強く求められた背景には、やはり“PUSHIM”や“MOOMIN”と言ったレゲエシンガーが先がけてメジャー・デビューしていたことが大きいと思うが、本場ジャマイカではシンガーだけでなくDeeJayも大きなSTAGE SHOW(コンサート)ではバンドでやることが当たり前であり、彼らの存在があって初めて「本場さながら」のレゲエ・フェスがここ日本で実現できたと言える。

日本のレゲエ・フェスにおいてHOME Gは「必要不可欠」。まさに“日本のサジタリアス”(※)とでも云うべき存在であった!!

 

(※)サジタリアス・バンド……

鬼才デリック・バーネットが率いたJAのダンスホールレゲエバンド。特に80年代後半から90年代初頭にかけてジャマイカの主要なレゲエ・フェスはほぼ全てにおいてバック・バンドを担当した。

 

HOME Gは自らがプロデュースを務め、彼ら名義で何枚かのコンピレーション・アルバムも発表している。そんな活動の中から生まれたHITが名曲『星にお願い』である。

 

 

 

HOME Gとは同じ神奈川エリアをrep.するベテラン『H-MAN』と、シンガーNEOをゲスト・ボーカルとして迎えた本作は、ちょうど『横浜レゲエ祭』のアンセムとして広まった『MIX UP』という楽曲の存在もあり、“日本版MIX UP”としてレゲエ・リスナーから熱狂的に受け入れられる。男女のデュエットということもあり、筆者をはじめ現在30代のレゲエ好きにはまさしく“青春の一曲!”のひとつである。

 

ちなみに未だにこの曲を聴くと、10代の頃付き合っていた彼女とカラオケ屋で“じゃあおれH-MANやるからね〜”と言って、ふたりで歌ったことが思い出される。三十路になった今、30代の友達と話すと“それ俺もやった!”と言われることも多く、同世代はみんな同じことをやっていたんだなと(笑)。

 

“とにかく俺はキミとやりたい 三、四がなくても五でやりたい!って言ったら言うぜ彼女だいたい……”

 

あの子は幸せになれたのかなぁ。

 

そして激動の2000年が過ぎ、翌2001年は皆さんご存知『三木道三 / Lifetime Respect』が大ヒットした年である。

オリコン一位、累計売上枚数90万枚。という紛うことなき「大ヒット」。

『JAPAN一番』を唱え、“日本人として日本で日本語のレゲエをどう根付かせていくか?”という命題を日々模索していた男の“悲願”はここで達成されたのであった。

 

余談だが、この年16歳のぼくは先輩であったSIN'G-ROY(現SING J ROY)に導かれるように、北陸福井の片田舎でレゲエDeeJayとしての第一歩を踏み出している。

 

SUPERSTARのリディムに乗せて緊張しながら初めて握ったMIC。

クラブに行く時の勝負服はXXXLのペンディーンのアミシャツにペレペレのデニム。

街を歩けば流れていた『Lifetime Respect』。

 

ちょっと恥ずかしくてほろ苦い、オレの青春。

 

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左が「DJ編」で右が「シンガー編」。二枚を繋げると一枚絵が完成する。

2001年は、日本人イラストレーター・MURASAKIのイラストが世界最大のレゲエ配給レーベル『VP RECORDS』の長寿コンピ『STRICTLY THE BEST』のジャケットに起用されるという、ドラスティックな出来事が起こった年でもある。

 

もともと、CISCO大阪店の店長で、関西ファッション誌『カジカジ』での漫画連載や、カエルスタジオ関連のアートワークを手がけていたことでにわかに注目を集めていた氏であったが、この出来事をきっかけに日本全国にその名が知れ渡ることに。『STB』のジャケは翌2002年も引き続き担当し、この頃からMIGHTY JAM ROCKのアルバムアートワークや、夏の『HIGHEST MOUNTAIN』の公式フライヤーもレギュラーで手がけることになる。

一時期は、有名なレゲエ・サウンドが出す日本人コンピレーションアルバムのジャケのほとんどを氏のイラストが飾っている……なんてことも珍しくなく、まさに“時代”のアイコンのひとつであった。

 

LIMONIOUSのヘタウマな絵を見れば目に浮かぶのは煙モクモクの80年代のジャマイカダンスホールであるが、ムラサキさんのイラストを見ると思い出すのは皆がカラフルなタオルを振り回す2000年代の日本のフェスの風景である。

 

2002年には『MINMI / Perfect Vision』が、オリコン4位となるHITを記録。今に至る同アーティストのキャリアが本格的にスタートすることとなる。

同曲は元V.I.PバンドのメンバーでもあったKAMISHIROが手がけたもので、他には『Keyco / SPIRAL SQUALL feat. Chozen Lee』や、『MOOMIN / MOONLIGHT DANCE HALL』なども氏がRIDDIM TRACKを制作した作品。

00年代前半の日本語レゲエを語る上で上代さんが果たした役割は大きく、まさに“影の立役者”の一人と言って過言ではないだろう。

 

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FIRE BALLもこの年メジャーデビューを果たしている。 彼らがシーンに持ち込んだものと言えば“タオルプロペラ”だ。

もともと、“フェスでタオルをプロペラのように振り回す”のは、プロデュースを手がけるMIGHTY CROWNが『Iwer George  / Carnival Come Back Again』のDUBをかけてやったのがそもそものハシリであるが、FIRE BALLがメジャーデビューする際、『BRING IT ON』の振り付けとして採用し、日本中に広めたものである。

グッズとしてのタオルの売上は、フェスの収益を担保する上でも重要な財源のひとつとなり、『レゲエ祭』をはじめとする各地のレゲエ・フェスが拡大していく上で大きなエンジンとなっていく。

 

MIGHTY、そしてFIRE BALLが広めたタオルプロペラはジャンルの垣根を越え夏フェスお馴染みのものとなり、今ではアイドルのコンサートですらその光景を見ることができる!

 

 

この頃、海の向こうでは『Wayne Wonder / No Letting Go』がHITを飛ばし、同じ『Diwali』trkを使用してる『Sean Paul / Get Busy』は、ジャマイカ人レゲエアーティストとしては“初”となる全米3週連続一位という快挙を成し遂げる。MTVをつければJanet Jacksonと砂浜でワイニーするBEENIE MANの姿が映り、第三次レゲエブームが本格的に幕開けしていた。

そして、それはここ日本でも間もなく現実のものとなった。

 

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八景島を埋め尽くす超満員の観衆。

2003年からその後の数年間は、ある世代にとっては忘れ得ない日々だろう。

 

まず、03年8月に『横浜レゲエ祭』が八景島シーパラダイスで初の野外開催。しかも観客動員数は前年を倍以上に上回る1万人!!

 

それまでにも日本で万単位の観衆が集うレゲエのフェスはあった。しかし、それはアーティストも、またバックを務めるバンドも、皆海の向こうから「来てもらって」やったものだ。

しかし、今はちがう。すべてを自分たちの力で創りあげたのだ。

「日本語でレゲエが歌えんのか?」「日本人にレゲエなんかやれんのか?」

そう言われていた時代から始まって、とうとう「日本人による母国語のレゲエ」はここまで辿り着いたのだった!!

 

 

 

 

この年、リリースされた作品で何と言っても忘れてはならないのは『ESCAPE Riddim』だ。

東京の女性サウンドクルー・HEMO&MOOFIREの初プロデュース作であり、印象的なRiddim Trkを手がけているのはモンスター・リディム『Diwali』の制作者でもあるLENKY(※LENKYは日本人ものとしては他に『PUSHIM / I WANNA KNOW YOU』なども手がけている)。

 

当初は7インチレコードのみのリリースであったが、特に『KEN-U / DOKO』、『MICKY RICH / WINE YEAH』の二曲が人気を集め、当時の「着うた」での根強い人気も手伝って、異例のロングラン・ヒットに。気づけば00年代を代表する日本語レゲエ曲として不動の地位を確立するまでに至る!!

 

今となってはあまり知られてはいないが、『ESCAPE』は日本人・ジャマイカ人アーティスト混合で15曲入りのワンウェイ・アルバムも最初からリリースされており、その中には若き日のVYBZ KARTELがボイスしている曲も存在する(!!)。

 

日本のレゲエ・シーンが急速に肥大していく中で、あくまでStrictryなジャマイカン・マナーに則って作品を制作したこと。そしてその作品を最終的には大ヒットにまで導き、

「レゲエには曲のトラックだけを『Riddim』と呼んで独立したものとして捉え、同じRiddimの上で複数のアーティストが曲をリリースする独自の文化がある」

ということを広く認知させたこと。

この時代にHEMO&MOOFIREが果たした功績は計り知れない。

 

翌2004年には『横浜レゲエ祭』は、クラブで開催していた頃から数えてちょうど10周年を迎え、開催場所も八景島からみなとみらいに移して2万人を集客する。また、西の『HIGHEST MOUNTAIN』は舞洲にて初の野外開催となり(ちなみに舞洲は90年代にJAPAN SPLASHが開催されていた場所でもある)、こちらは1万3千人を集客。東西二大フェスは倍々ゲームでその規模を拡大していった。

 

そしてそれに続けとばかり、各地方では数千人規模のレゲエ・フェスがそこかしこで開催。

 

メディアには「ジャパニーズ・レゲエ=ジャパレゲという言葉が頻繁に躍り、街を歩けばラスタカラーのアイテムを身につけた人もよく目についた。この頃ぼくは19歳。本当に「ブーム」が来たんだなということを実感させられたものだった……。

 

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この、2000年代の日本のレゲエブームを象徴するような存在のひとつが「HOTTIE CAT」である。

奈良県出身の女性レゲエダンサー二人組で、TV番組『少年チャンプルスーパーチャンプル)』に採り上げられたことにより人気が爆発。二人の美しいルックスも手伝って、アイドル的存在としても注目の的に。全国にレゲエダンサー旋風を巻き起こす!!

 

物心ついた頃からiPhoneを持っているような今の若い世代にはちょっと想像がつかないかも知れないが、当時の個人発信のメディアというものは今の時代に比べたら極端に少なく、SNSはやっとmixiが登場した程度(当初はパソコンからしかできなかった)、全国のレゲエ人はガラケーで、「魔法のiらんど」の掲示板で交流しているような時代である。

 

そんな時代に「TVに出演し、しかもそこで話題になる」ということがどれ程の影響力を持っていたかお分かりになるだろうか?

 

HOTTIE CATはサザンオールスターズのツアーダンサーなどにも抜擢され、日本語レゲエ的には「lecca」(※現在は都議会議員となった斎藤れいな)のバックダンサーとしての活動も永年に渡って継続。08年にはギャッツビーのCMに出演しあの木村拓哉との共演も果たす(※CHIEさん産休だったため代打でKIYOさん)。

 

二人は2011年の東日本大震災を機に帰郷。現在はMEGUもCHIEも子どもを授かり、生まれ故郷の奈良で幸せに暮らしている。

 

スーパーチャンプル』でDA PUMPと共演するHOTTIE CAT。

 

 

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湘南乃風』もこの、レゲエブームまっただ中の頃にメジャーデビューを果たしている。初期のCDシングルのジャケをヤンキー漫画の巨匠・高橋ヒロシが手がけていることからも分かるように、当初から「不良」のイメージを強く打ち出したグループであり、この頃、10代を中心に急速に人気を集めていた。

 

その人気っぷりは凄まじいもので、活動はレゲエの枠を超えてポップ・フィールドに進出するまでに及び、2006年にはご存知『純恋歌』がリリース。オリコン2位を記録する大ヒットに!

今でもたまに、TVで芸人がHAN-KUNのものまねをして『純恋歌』を歌うのを見かけることがあるが、改めて「歴史」を作った曲なんだなということを実感させられる。

 


 

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初めて横浜スタジアムで開催された『横浜レゲエ祭

2006年、『レゲエ祭』が初の横浜スタジアムで開催され、3万人を集客。また、西の『HIGHEST MOUNTAIN』は舞洲で2万5千人を集客し、ジャパニーズ・レゲエ・シーンはひとつのピークに達しようとしていた。

 

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この年、「東」でも「西」でもない日本の真ん中、東海エリアをレペゼンするDJ&シンガーのデュオ『MEGARYU(MEGAHORN & RYU-REX)』のアルバム『我流旋風』がオリコン初登場一位を記録する。

MEGARYU』は『レゲエマガジン』の初代編集長、加藤学氏(2011年永眠)がプロデューサーとして制作に携わっていたユニット。90年代の『JAPAN SPLASH』の遺伝子(※)は形を変えて受け継がれていたのだ!!

横浜レゲエ祭』や『HIGHEST MOUNTAIN』の偉業はもちろん忘れてはならないものだが、それとは別路線で、日本でレゲエを広めようとした人たちが居たこともまた、忘れてはならない。

 

(※)『レゲエマガジン』は『ジャパンスプラッシュ』を運営していたタキオンが発刊していた雑誌。『ジャパスプ』の広報誌という役割も担っており、『ジャパスプ』で海外アーティストが来日する際は詳細なバイオとともに『レゲエマガジン』にインタビューが載るのが通例であった。

 

 

06年に生まれた名曲と言えば『CHEHON / みどり』だ。使用されているRiddimは当時流行った『GUILTY』をジャマイカから公式ライセンスしてきたもので、『SOJAH / PON DI CORNER』などと同オケ。

リリックに“仕掛け”が施してあり、

「ただのラブソングと思いきや実は……」

という内容が話題を呼んでBUSS。リリース当時弱冠22歳だったCHEHONは、この曲を切っ掛けに一躍脚光を浴びるようになる。

 

『みどり』の人気を後押ししたのは、各地のサウンドマンが録って現場でかけた“DUB”だった。

 

この頃、レコーデイング環境はデジタルに移行しており、Pro Toolsを導入し、自宅スタジオを構えるサウンドマンが全国で急増。まだCDも売れている時代だったのでALL DUB MIXをリリースするサウンドもとても多かった。

すると当然ながらネームバリューのあるアーティストに依頼しているだけでは“弾”が足りなくなり、若手アーティストにも目を向けざるを得なくなる。

 

そうした流れの中で生まれたHITが『みどり』であった。だから本当に“現場発”のHIT TUNEである。

 

ちなみに筆者が2016年にCHEHONにインタビューした際は

“今までで『みどり』のDUBは余裕で200本以上は録ってますね”

との発言を残している。

 

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この頃、シーンに登場したアーティストの中では何と言っても『笑連隊』を忘れてはならない。

それ以前にもランキンさんやH-MANという存在はあったものの、当時まだ20代前半だった若者たちが真っ向から笑いに取り組むという姿勢は当時としてはかなり異質なものであった。

しかし、結果として彼らが支持された背景には

「日本人のレゲエはお笑いだ!とか言う奴らもいるけど、じゃあお笑いやっちゃいけないのかよ!!」

という皆の内なる声を代弁したことにあると思う。

 

そうなのだ。確かに何でもかんでもお笑い扱いされるのは嫌だが、だからと言って「笑い」の要素が完全に封印されるのも何とも寂しい。“レゲエ”はそんな懐の狭い音楽ではないのだから……。

 

当初こそ異端扱いされた笑連隊であったが、1stミニアルバム『人間合格』をリリースした頃から全国で引っぱりだこになり、2008年にはHIGHEST MOUNTAIN出演も果たしている。

 

 

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また、『ARARE』の存在も重要だ。

横浜レゲエ祭への登竜門企画『Road to レゲエ祭』で優勝したことから注目を集め、全国区のアーティストに。

 

シーンに登場した頃はまだ20歳という若さであったが、そんな彼が80sのオールドフローでトゥースティングする様は何とも新鮮であり、若いMIC持ちたちのオールドスクール再評価の流れを作った。

ラブダブ巧者としても知られ“現場”での強さには定評があるアーティストで、自身が優勝した06年度の『Road to レゲエ祭』におけるDANGER SHUへのアンサーは伝説として語り継がれている。

 

笑連隊もそうだが、どんなに流行っても出自である「ストリートミュージックとしてのレゲエ」は求められるわけであって、それがこのようなアーティストを押し上げたとも言える。

膨張していたブーム期のレゲエシーンであったが、こんな形で文化としてのアイデンティティーは保たれていたのである。

 

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RUB-A-DUB MARKET

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BUNBUN the MC

サブカルチャー的な文脈で「日本語のレゲエ」を表現しようという動きもあった。

“異型ラガマフィン”を唱え、東京のサウンド『JAM MASTER』と『X-STACY』の元メンバーで結成された『RUB-A-DUB MARKET』、元LABRISHの店長でもあった大阪の『BUNBUN the MC』などはその代表格と言えるだろう。

 

その活動は、ブームに伴い客層も低年齢化していく中で「大人も聴けるレゲエ」を提示しよう!ということにも繋がっており、彼らもまた、この文化のピュアネスを保つために一役買っていた!!

 

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PART2STYLE SOUND

ちなみに『RUB-A-DUB MARKET』のメンバーであったMaLは同クルー散開後、DJユニット『PART 2 STYLE』として活躍し、ベースミュージックの分野で世界的な存在となっている。

根っからのレゲエ・リスナーには馴染みが薄いかも知れないが、「ベースミュージック」はレゲエから派生した姉妹ジャンルであり、そもそも“PART 2 STYLE”というワード自体が、80年代の、7インチレコードをひっくり返して行う伝統的なラバダブ・フリースタイルを指して言う言葉である。

 

 

 

 

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2007年には活動初期から日本語レゲエを強くサポートしていた西の雄・RED SPIDERのALL JAPANSE DUB MIX『爆走エンジェル』が、二枚組というフル・ボリュームでメジャー配給される。

Pro Toolsが普及する過程で日本人もののmixも全国のサウンドがリリースしていたが、その中において“決定打”とも呼べるものだった。

 

今の20代の人と喋ると“中学生の頃ジャパレゲ好きで『爆走エンジェル』よく聴いてました!!”という話をされることもとても多く、しみじみ隔世の感を禁じ得ない。

 

 

……しかし、ちょうどこの頃から「レゲエ、そろそろやばいんじゃない!?」という声が内外で囁かれるようになる。

田舎の末端のレゲエDeeJayだったぼくですらそんな空気をひしひしと感じていたぐらいなのだから、上の人たちはもっとだったろう。

『レゲエ祭』や『HIGHEST MOUNTAIN』などの大型フェスは変わらず数万人単位の集客をキープしていたが、クラブレベルでは2008年辺りから本格的に瓦解が始まり、00年代最後の2009年にもなると目に見えて集客に影響が出るようになった。完全に「ブーム」の反動が出てしまっていたのである。

ぼくも2008年頃にはMICを置いてしまい、以降DeeJayとしてのパフォーマンスは行っていない。

 

祭りのあとのさみしさが、嫌でもやってくるのなら……

 

子どもの頃、親父がカーステで流していたフォークソングが頭をよぎった。

何となくレゲエを聴く気分にはなれなかった。

 

10年代

2010年代のレゲエシーンはまさに「どん底」の中から始まった。

ブームの直後で反動がモロに出てしまったことが一番大きいが、時代の流れでCDの売り上げが立たなくなってしまっていたこと。また、風営法の絡みで多数のクラブが摘発されるなど、根本からシーンが揺さぶられるような問題が起こっていた。

 

そして迎えた2011年、東日本大震災

 

この未曾有の大災害を前に中止や延期となる音楽イベントも頻出し、もともと、暗かった業界内の雰囲気は輪をかけて暗くなっていった。

しかしそんな中でもラガマフィンは強かった。

 

 

この頃、『EVERYBODY GO SO』『414141』という、それぞれ関西、東海を拠点に活動する実力派サウンドマンがMICを握った曲が地下シーンで急速に人気を集め出し、正式リリースもされていないまま、その勢いは全国に波及していった。

 

歌っているサウンドマン達が皆、“JUGGLIN”の現場で名を馳せた者たちだからなのであるが、サウンドシステムの爆音で流れる日本語曲で、皆が同じ振り付けで踊り出す様は何とも圧巻で、「新時代」の到来を強く感じさせた。

もともと、「洋楽志向」が強かったレゲエダンサーのシーンであるが、あの頃を境に日本人の楽曲でも踊る流れが出来たように思う。

 

そして、サウンドマンなど「非MIC持ち」が歌う……という文化は、そもそも『TONY MATTERHORN / DUTTY WINE』のHITで00年代中盤にはあったものだが、この10年代初頭のムーヴメントを目の当たりにした時は

「アイデアと行動力さえあればレゲエは誰にだって面白いことがやれるんだぜ!!」

という、この文化の「根本」を改めて教えられた思いだった(※『414141』で歌っているカリスマゾンビなど、サウンドマンでもなくずっとイベントプロモーターをやっていた人物である)。

 

あの時ほどこのカルチャーが持つ強靭な生命力を感じたことはない。

 

『414141』でMr. SEARCHが叫ぶ「誰も死にません!!」は、「酔いつぶれません!!」という意味で言っているのだが、自分には

「レゲエも、それに関わる俺たちもな、誰一人として死んじゃいねぇんだよ!!」

と言ってるように聞こえて仕方がなかった。

 

そして“現場発”のHIT TUNEと言えば、この曲を忘れる訳には行かないだろう。

 

 

ご存知、『もぐらの唄』である。

2011年にリリースされた同曲は、大々的なプロモーションもなされていないままSNSを介して全国に広まっていき、最終的には海の向こうで偶然曲を耳にしたメジャーリーガー・田沢純一投手が同曲に惹かれ自身の登場曲に使用するという奇跡のような出来事をも巻き起す。当時ヤフーニュースにも採り上げられたので覚えている方も多いのではないだろうか。

 

参考リンク:世界が武者震い!RED SOXを世界一に導いた田沢投手の登場曲「もぐらの唄」とは。 | エンタメウス

 


 

“この先も色々あんだろう

それならその度にがんばろう”

 

シンプルで力強いメッセージは“ブーム”に翻弄された全国のラガマフィンの心を熱く奮い立たせた。そうなのだ。山あり谷ありは当たり前。その度、その度、がんばるしかない。“泣いても笑っても人生は一度きり”なのだから……。

 

『もぐらの唄』は紛れもなく日本語レゲエを代表する楽曲のひとつとして完全に認知され、2019年の現在、YouTubeの再生回数も1000万回を突破している。

 

2010年代は「日本一のレゲエ激選区」大阪の底力を感じた10年でもあった。

日本人ものの一連としては泉州の老舗サウンド・BURN DOWNのレーベルSOUTH YAAD MUZIKからリリースされた『STEP UP Riddim』がシーンを席巻! 中でも『HISATOMI / MY DREAM』が同リディムを象徴するようなHITチューンとなった。

 

この頃の大阪シーンのキーマンと言えば“教授”である。“某・超有名国立大学を卒業!”という異色の経歴の持ち主で、JUDGEMENTのTUCKERが興したレゲエレコード店ROCKERS ISLAND』に、ストアスタッフとして入社後、メキメキと頭角を現しROCKERSの中枢を担う存在に。

 

00年代レゲエブーム時のROCKERSは東京・大阪・札幌に三店舗を構え、世界有数のレゲエレコードの在庫量をキープ。06年には英BBCで、「1年間に80万枚のレコードをジャマイカからロッカーズ・アイランドへ向けて輸出。日本には世界最大規模のレゲエ専門レコードショップがある」と、ニュースになるほどであった。

そこで得た豊富な資金を用い、自社レーベルや情報サイト『ROCKERS channel』を運営。単なるレコ屋を超え“日本の一大・レゲエカンパニー!”として不動の地位を築いていた。

 

ROCKERSで実績を積み上げる中で、教授は同社の音楽レーベル事業にも携わり始め、関西圏を中心とした日本人アーティストのプロデュースを開始。自身がトラックメイキングを手がける他にも、時には作詞作曲の共作者として楽曲制作に参加し、シーンの底上げに一役買っている。

 

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そんな彼がフックアップしたアーティストが『寿君』である。

奈良県出身のレゲエDJで下積み時代は『MOUNTAIN KING』という芸名で活動していたが、RED SPIDERのJUNIORに『寿君』と命名されて以来、急速にアーティスト人生が変わり始め(※日本レゲエ界にはジュニアさんが芸名を付けると売れる、というジンクスが存在する)、10年代のはじめにはシーンの最前線に躍り出る。代表曲『オレトオレバ』『オレガヤレバ』などでは教授が作詞作曲を共作。

 

2018年にはTUBEの同名曲をサンプリングするというド直球のPARTY TUNE『あー夏休み』を引っ下げてメジャーデビュー。

ねたがJ-POPの有名曲、ということで賛否両論を起こしつつもレゲエ代表として邦楽シーンでサヴァイブを続けている。

 

 

 

 

「西」が熱ければ、もちろん「東」も負けてはいない。

2013年には東京のSPICY CHOCOLATEがプロデュースした『ずっと』がNTTドコモのCMソングに起用され、HIT。アルバムもオリコン初登場3位に輝いている。

 

POPなイメージを持たれがちなSPICYであるが、元々は90年代から活動する老舗レゲエサウンドで(※現在はKATSUYUKIのソロ・ユニットとして活動)、全国規模のダンサーコンテストやDJコンテストなどの主催などを通じて、影となり日向となりシーンを支え続けてきた人物である。

2018年には自身が選抜したレゲエDJを率いて人気TV番組『フリースタイルダンジョン』にも登場。同番組初の『レゲエ編』を大成功に導いている。

 

結成から既に25年に及ぶ月日が経とうとしているが、日本におけるSPICY CHOLATEのレゲエ普及活動は、これからも「ずっと」続いていくのだろう。

 

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また、『Magnum Records』の存在もことのほか重要だ。

現場からの比類なきPROPSを受け、Rudeboy Face、Akane、Rueedという“黄金のトライアングル”は、今も止まらず現在進行形で日本語レゲエをアップデートし続けている!!

 

 

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そして、J-REXXX。

都内で開催されていたDJコンテスト『Ragga Cup』に優勝したことをキッカケにCDデビュー……というバックグラウンドからも分かるように、活動初期から“現場”での強さには定評があるアーティストで、コンテスト荒しとして知られていた。

 

だが、音源のBIG HITにはなかなか恵まれず、長い下積み生活を送ることとなる。

 

そんな彼に転機が訪れたのが新進気鋭のトラックメーカー774とタッグを組んでDROPされた『M.U.S.I.C』のBUSSで、ここから完全に才能が開花し、10年代の日本における最重要レゲエDeeJayの一人として数えられることとなる。

 

音楽性そのものは正当なブラックミュージックの流れを汲むものであるが、オーセンティックなPUNKファッションに身を包み、“REGGAE”に捉われずジャンルを横断してどんな現場でも盛り上がる様は正に唯一無二!!

日本でもっとも“鬼ボス”という言葉が似合う男である。

 

 

 

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2010年代はベテラン勢の海外での活躍にも心躍らされた。

名古屋をレペゼンし、90年代より活動を続ける『ACKEE&SALTFISH』は、2014年に自らの“原点”でもあるジャマイカに渡り、久方振りに現地で本格的な音楽活動を開始。

永年のキャリアで培った巧みなパトワを武器に大小問わず現場をBUSSし続け、歴史と伝統ある『REBEL SALUTE』や年末恒例の『Sting』にも出演を果たす。

 

ちょうど14年は日本とジャマイカの国交50周年の年に当たり、YouTubeの向こうでパトワ語で黒人たちを盛り上げるACKEE&SALTFISHは、まさに“音楽の親善大使”そのものであった。

 

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そして、10年代に“ジャマイカをBUSSした日本人”と言えばもう一人、RANKIN PUMPKINである。

彼女も永年ジャマイカで音楽活動を続けている日本人アーティストであるが、2017年にオーディションを通過し、現地の人気番組『Magnum Kings & Queens of Dancehall』に、唯一の日本人DJとして出演。約4ヶ月に及ぶ同番組の勝ち抜き歌合戦企画においてファイナルまで進出し、ジャマイカ全土にその名を轟かすこととなった。

 

RANKIN PUMPKINは、冒頭に記した80年代レゲエマガジンの『日本レゲエDJ名鑑』にも載っているベテランアーティストで、2017年は彼女が伝説のコンピ『ニポニーズラガマフィン』でCDデビューして、ちょうど「25年目」に当たる年であった。

 

その永年のキャリアの中で、日本の数万人を集客するような大型フェスに出演した訳ではないが、まさかこんな形で世界で有名になるとは誰が予想し得ただろうか!?

レゲエの言葉を使うなら、まさに“GUIDANCE”である!!

 

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また、名古屋をレペゼンするレゲエシンガー『MACHACO』は、先述の二組とは違ったベクトルで、世界に向けて日本語レゲエを発信したアーティストである。

 

彼女も90年代初頭より活動を続ける大ベテランで、2008年アルバム『Precious』でメジャーデビュー。同作は9割が彼女が単身ジャマイカに渡り、現地の一流ミュージシャンとセッションして制作された楽曲で占められているが、このことが切っ掛けで業界内で存在がちょっとした噂となり、10年代にはUKの『Necessary Mayhem』や『Tippa Irie』、ニューヨークの『Manila Jeepney』など、多数の海外レーベルから作品をリリース。

 

“日本語で歌われたLOVERS ROCKを世界に届けられるワン&オンリーのアーティスト”として、日本語レゲエの可能性を広げ続けている!

 

 

 

こうして振り返ってみると、2010年代は「日本語レゲエ」というカルチャーが、かつてないほどの広がりを見せた10年間であったことが分かる。

そして、中にはこんな“オリジナル”な存在感を発揮しているアーティストも。

 

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北陸は福井県のベテランレゲエシンガー・SING J ROYは、00年代後半SUNSETレーベルに籍を置いていた頃の活動でご存知の方も多いと思うが、その頃リリックすべてを福井弁で書き下ろした『ほやほや』『だんねーざ』(※『ほやほや』は福井弁で『そうだ、そうだ』と相槌を打つ時に使われる言葉。『だんねーざ』は問題ないという意味)という楽曲が福井県内でローカルヒットを飛ばし、県内の小・中学校に音楽の特別講師として招かれるようになる。

 

その活動は今も継続中で全国規模に拡大しており、訪れた学校は県内外合わせて既に60校以上を突破!!

 

日本屈指のROOTS REGGAE BAND『ZION HIGH PLAYERS』と10年以上寝食を共にし、“RASTA”の思想を信条とする氏であるが、現在の活動は

「自分たちの『ROOTS & CULTURE』をどうやって後世に伝えていくか?」

というラスタマンとしての命題に、彼が日本人として、福井人として、答えを出した結果なのかも知れない。

 

 

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また、ダンスホールのシーンとはあまりLINKがないのでご存知ない方も多いと思うが、東北は秋田発のレゲエ・バンド『英心 & The Meditationalies』もユニークな存在感を発揮している。

 

フロントマンの男性ボーカルが現職のお坊さんということで“現役僧侶が在籍する仏教レゲエ・バンド!”という触れ込みで知られているのだが、単なる色物(スイマセン)かと思いきや、作風は正統派そのもの! 『ROCKERS』を思わせるオーセンティックなレゲエのリディムに、見事に日本語詞を乗せている。

 

評論家筋からの評価も高く、老舗音楽誌『ミュージックマガジン』では1stアルバムが、2015年度の“国内レゲエ部門・年間ベストアルバム”の、栄えある第一位に選出。

また、2018年にレゲエが「ユネスコ無形文化遺産」に登録された際は、“日本にもこんな面白いレゲエアーティストがいる!”と、朝日新聞の『天声人語』にもその存在が紹介された。

 

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2000年代、「クイーン・オブ・ジャパニーズ・レゲエ」と呼ばれたPUSHIMは、ブーム期が過ぎさって尚自身の音楽性を強固なものとし、近年のMUROプロデュースによる一連の作品や、「レゲエ」畑以外の数々の有名フェス出演などを通して、もはや「ジャパレゲ」の枠を越えた存在として完全に認知される。

 

奇しくも今年、2019年はPUSHIMの“デビュー20周年”に当たる年でもある。

 

古い歌を持ち出して恐縮だが、彼女は“今ここに立って何を思うんだろう?”。

その答えは、彼女が“歌”で教えてくれるだろう。

 

どんなに大きな存在になったとしても「TOKIWAの歌姫」「クイーン・オブ・ジャパニーズ・レゲエ」と呼ばれていた頃から何も変わらぬあの声で。

 

 


 

89年、平成元年にRANKIN TAXIが処女作『火事だぁ』をリリースして今年で30年。

その間に二度のブームが起こりアップダウンもあったが、それも乗り越えて「日本人による母国語のレゲエ・ミュージック」は独自の進化・発展を遂げてきた。

00年代ジャパレゲブームの“象徴”でもあった、東の『横浜レゲエ祭』、西の『HIGHEST MOUNTAIN』の二大フェスは、時の流れの中で一時は休止した年もあったものの、現在も継続中で、このカルチャーに火を灯し続けている。

そして、今や“日本語のレゲエ”は、海を越え世界的な広がりすら見せようとしている。

地球の裏側からやってきたこの文化は「30年」という時を経て、完全にこの国に「定着」したと言えるのではないだろうか。

 

30年に及ぶ「平成」という時代を、日本語のレゲエは赤黄緑で鮮やかに彩ってきた。

 

この先この文化はどこに向かい、どう変わっていくのだろう?

まだまだ目が離せないことは確実だし、ぼくもまだまだ見守っていこうと思う。

 

この文化を愛するすべての人たちに敬意と愛を!

 

あとがきにかえて 〜青春にケジメをつけるために〜

……ここまで書いておいてなんですが、ここで綴られている日本語レゲエの歴史は「不完全」なものです。

本当は「30年」なんで、それにちなんで元原稿は3万字ほど書きまして。それでも足りないぐらいだったのですが、もうネットの一記事に収めるには余りにも長すぎるということで(汗)、編集サイドとも協議の結果、2万字ちょっとまで減らしました。

本当はまだまだまだまだ……書きたいことが山ほどあるのですが、ひとまず今回はこの辺で置いておきます。

というのも、今回このテーマで書くのが決まった時「日本 レゲエ 歴史」とかで検索してみたのですが、全然、情報が出てこなくてびっくりしました。内容うんぬんは置いとくとしても「REGGAE」のスペルが思い切り間違ってるジャパレゲのまとめ記事がけっこう上に出てきたりして……ちょっとこれは、何とかせにゃならんなと。

とりあえずネット上にある程度のガイドラインを作る必要があるんだなと、強く思った次第です。

 

なので自分の書いた記事を「補完」する意味でも、これを読んだ皆さんがSNSなどでやいのやいの言ってくれたらこれ幸い! そーいうことを通じてこの音楽に対する理解が深まってくれたら自分も書いた甲斐があります。

「日本語でレゲエが歌えんのかよ?」
「日本人にレゲエがやれんのかよ?」

そんな風に言われた時代がありました。
おどけた歌詞を歌うだけで色物扱いされるような時代がありました。

それを乗り越えて「日本語のレゲエ」をひとつのアートにまで高めたのはひとえに多くの先輩方の努力のたまものです。素晴らしい音楽だと思ってます。

 

“あー、レゲエ好きなんですか? レゲエってあれでしょ、めっちゃ親に感謝しまくる……”

 

初対面の人に「日本人のレゲエ聴いてます」とか言うと、未だにそんなこと言われることもあってウンザリします。けども、“この先も色々あんだろう それならその度に…”なんで、がんばって伝え続けようと思います。日本語のレゲエが更なる発展を遂げることを心から願って!

 

そして最後になりましたが、自分も元々はレゲエDeeJayとしてMICを握っていた人間でした。

 

16歳の時、福井の田舎でSING J ROYと出会って“君もレゲエ好きなの? おれ達のやってるイベントに遊びに来ねや! 歌ってみねや!”と言われたこと。行ったらゲストで来ていたLADY Qに“ソロバンタン”という芸名をつけられたこと。

一生忘れない、かけがえのない思い出です。

 

あれから20年近い月日が流れて、もう歌うこともなくなっちゃったけど、未だに“ソロバン”のままでレゲエ関係の原稿を書いています。

そんな自分にとって、「日本語レゲエ」の歩みを振り返る記事を書くというのは、何とも“特別”なことでした。

 

「平成」も終わるこの時に、やっと自らの青春にケジメをつけれた気がします。

ありがとうございました。